武田氏滅亡

925 ~ 928

武田勝頼(かつより)は天正九年(一五八一)の年末に韮崎(にらざき)の新府(しんぷ)城(山梨県韮崎市)に移り、激化する北条、徳川との戦争に新たな決意をもって天正十年の新春を迎えたはずである。ところが正月の下旬、妹の嫁ぎ先の木曾義昌(よしまさ)が織田信長に寝返ったのである。勝頼は二月二日に諏訪まで出陣し、義昌攻撃に軍勢を投入した。しかし、信長方も三日に先発隊を出したのにつづいて、西から南から大軍を入れ、徳川家康も駿河(するが)(静岡県)から侵攻したので、武田方は落城、敗走、寝返りがあいつぎ、領国の防衛態勢はたちまちくずれ去った。勝頼は二月二十八日に新府城に引き上げたうえで、城に火をつけて逃走したが、三月十一日ついに甲斐の田野(たの)(山梨県東山梨郡大和村)で妻子とともに自刃(じじん)した。武田氏の滅亡である。


図5 武田氏略系図

 信長は三月五日に安土(あづち)城(滋賀県蒲生郡安土町)を出発、伊那郡浪合(なみあい)(下伊那郡浪合村)で勝頼父子の首実検をするなどして北上し、高遠(上伊那郡高遠町)をへて三月十九日諏訪の法華寺(ほっけじ)(諏訪市)に入って、ここに陣をすえた。二月以来信長にかわって織田軍を指揮していた子の信忠(のぶただ)は諏訪から甲府に陣をすすめていたが、三月末に諏訪にもどった。信長も信忠も諏訪より北に足を踏みいれることはなかったが、信長の弟長益が、府中(松本市)の深志城を攻めて馬場信忠をくだし、それよりさき、安曇郡の仁科氏をついでいた勝頼の弟盛信が高遠城の落城とともに討ち死にしているから、筑摩・安曇郡の南半は信長方が武力で制圧したといってよいであろう。しかし、それより北に織田軍がすすんだ形跡はみつからない。信長の禁制(きんぜい)が小県郡で南方(みなみがた)村(上田市)に一点出されているが、今のところそのあたりまで織田軍が攻めてきたことを示す史料はない。したがって更級郡・埴科郡以北に織田軍は入ってこなかったと考えられる。

 それにもかかわらず信長は、三月二十九日に旧武田領の知行割(ちぎょうわり)をおこない、先陣をつとめて粉骨した森勝蔵長可(ながよし)に高井・水内・更級・埴科四郡を宛行(あてが)い、川中島に在城するよう申しつけた。武田を裏切った木曾義昌は本領の木曾地方を安堵(あんど)されるとともに、安曇郡・筑摩郡を新知として宛行われた。小県郡・佐久郡と上野(こうずけ)国(群馬県)は滝川一益(かずます)に、諏訪郡と甲斐(かい)国(穴山信君の本領は除く)は河尻秀隆(かわじりひでたか)に宛行われた。信濃と甲斐は、木曾と穴山の本領を除いてすべて、外来の支配者のもとにおかれることになった。信長は信甲二ヵ国の国掟(くにおきて)を定めたうえで、四月二日諏訪を立って帰路についた。

 いっぽう、武田と同盟関係にあった上杉は、このあいだどのように動いたのであろうか。上杉景勝もすでに能登(石川県)から越中(富山県)西部を信長方に奪われ、越中の東部で織田軍と戦っている須田満親らから援軍要請がきているありさまであった。越後の北部では、新発田(しばた)重家が織田方に呼応して景勝に叛旗(はんき)をひるがえしていたから、兵力に余裕はなかったが、勝頼には援軍派遣を申しでた。二月二十日、勝頼は景勝に返書を送り、諸勢を集めてかならず木曾義昌を討つとの決意をあらわすとともに、「人数の不足無く候といえども、外国の覚この節に候の間、二千も三千も早々指立(さした)てらるるにおいては、一段欣悦(きんえつ)たるべく候」と、二〇〇〇~三〇〇〇の軍兵の派遣を要請した(『信史』⑮)。しかし、上杉方の動きはにぶかった。

 三月二日、武田家臣の河野因幡守(いなばのかみ)家昌・山下越前守家吉・雨宮二郎右衛門尉忠辰(じょうただとき)・漆戸(うるしど)丹後守虎秀の四人は、春日山にいる勝頼家臣の長井丹波守昌秀に、越後勢の派遣を急ぐよう催促してほしいと訴えた。かれらのいる城では「侍衆の家中、ことごとく逆心の体(てい)に候」とあり、武田に見切りをつけるものが続出し、城を持ちこたえるのも困難になっていた。ここにいたって、上杉方も派兵にふみきる。北信が織田方の手に落ちれば、越後もあぶないからである。まず松本房繁・水原満家・新津勝資(かつすけ)・竹俣(たけのまた)房綱らが出発し、五日には牟礼(牟礼村)に到達している。さらに斎藤朝信・千坂(ちさか)景親、長井昌秀や上条宜順(じょうじょうぎじゅん)らも派遣された。三月六日、景勝は飯山城将の禰津(ねつ)常安(松鷗軒(しょうおうけん))に書状を送り、長沼城へ援軍を送ったこと、飯山城も軍勢不足なら援軍を送ること、加勢のものに長井昌秀を添えてやったので、同人と相談するのがよいといったことなどを伝えた。さきの河野家昌らがいた城の名は文書に書かれていないので明らかではないが、上杉の援軍が長沼城に向かったことから、長沼城にいたのではないかと推定される。

 武田勝頼の家臣として城を守る人びとにとって、上杉軍の出兵は警戒を要するものであり、景勝はあくまで同盟者として勝頼に援軍を送るのだという立場を表明する必要があった。甲斐から逃げ帰った市川新六郎にたいする三月七日の書状でもその原則は表明されているが、他方では新六郎にたいし服属をうながしている。また、海津より北の諸士にたいしては、岩井信能(のぶよし)を使ってひそかに上杉への服属を働きかけていた。こうした表向きの原則を捨て、北信の平定に乗りだすのは、三月十一日の勝頼自刃後のことであろう。三月末には飯山城が上杉軍に攻められて落城間近となり、四月二日には長沼城が一時上杉の手に落ちた。景勝はなんとかして芋川親正(いもがわちかまさ)と外様(とざま)衆を早く味方につけたいと考えて、書状を送るなどして働きかけていた。また、忠節を尽くすものにはだれでも望みしだいに恩賞をあたえるといって、諸将を勧誘していた。しかし、それにすぐに乗るものはいなかったようである。そこに森長可が入ってくる。