森長可の入部

928 ~ 931

森長可ら、信長の新領土の支配を任された知行主にたいし、天正十年三月末に支配の基本方針を定めた国掟(くにおきて)一一ヵ条が信長から示された(『信史』⑮)。それはつぎのようなものである。

一(ひとつ)関所で通行税(関銭)を取らないこと。

一百姓にたいし、本年貢(ほんねんぐ)のほかに非法の課役をかけないこと。

一忠節を尽くした侍は取り立てるが、廉(かど)がましい侍は殺害するか、追放すること。

一公事(くじ)(訴訟・争いごと)については、入念に究明したうえで裁決を下すこと。

一国の諸侍にたいしては懇(ねんごろ)の扱いをするのかよいが、油断しないよう気をつけること。

一知行主は、欲を構えて自分の領地ばかりを多くすることなく、家臣に領地を分配し、またあらたに家臣を召しかかえること。

一本国の美濃・尾張からあらたに奉公を望むものがあれば、前の主人にことわったうえで扶持すること。

一城々の普請(ふしん)を丈夫にすること。

一鉄砲・玉薬・兵糧(ひょうろう)を蓄えること。

一領内の道路を整備すること。

一他領との境目が入り組んでいるところで、わずかな土地の境界争いをおこし、敵対することのないようにすること。

 右の定めのほか、悪い扱いがあったら、安土に上って直接に訴えでなさい。

 信長は七年前に越前(福井県)でもこれと似た国掟を出しており、その方針を踏襲(とうしゅう)したものであるが、第一条から第三条ないし第四条までの、商職人・百姓・武田旧臣らに直接かかわる条文は、人びとに告げ知らせる措置がとられたことであろう。新しい支配者を警戒し不安のなかで待ちかまえる信濃の人びとにたいし、第一条の関銭の廃止は武田の支配とのちがいをきわだたせ、警戒心をゆるめるに十分な効力をもったことであろう。また、第二条も、新しい支配者の苛酷(かこく)な収奪(しゅうだつ)を恐れる人びとに、武田のときより悪くはならないという安心感をあたえたことであろう。武田の旧臣も、敵対せずに忠節を申しでれば、引きつづき武士として給地もあたえられる見通しができた。四条では訴訟・争いで十分な究明をおこなうことが約束された。

 すべての人びとが警戒心や敵意をやわらげ、新しい支配をうけいれられるように意図した、政治的・戦略的性格の強い国掟ではあるが、それは当然に信長と知行主をも縛(しば)る掟であった。こうして三〇年から四〇年前に在地の武士を武力で追いだし、あるいは服属させた新しい支配者武田が滅び、また新しい支配者が武力を誇示(こじ)しつつ押しいってくることになった。

 森長可は四月二日に皆神(みなかみ)山熊野権現(松代町)に、軍勢の濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)禁止などを盛りこんだ五ヵ条の禁制(きんぜい)を出している。これが現存する文書のうち長可が四郡で発した最初の文書である。軍勢の到達前に長可の陣まで赴いて禁制をもらってきた可能性もあるが、距離からみて、二日には長可は川中島に来ていたのではなかろうか。四月五日には海津城将だった小幡(おばた)山城守に「当知行分のこと、進(まいら)せ置(お)き候うえは、相違あるべからず候」と、武田から給与され山城守が支配していた土地(当知行分)の支配を引きつづき認める(当知行安堵)とともに、忠節により新知を宛行うことを約束している。これにより、山城守が長可に服属したことは明らかであるから、海津城は武田旧臣が抵抗することなく長可に渡されたことがわかる。


写真34 皆神山熊野権現神社 (松代町)

 この四月五日は後述するように、一揆(いっき)の蜂起(ほうき)した日であり、長可がまず山城守に当知行安堵をおこなったのは、足もとの海津城を固めるためであろう。その後八日から十五日にかけて長可から当知行安堵をうけたものに、大室(おおむろ)左衛門・西条(にしじょう)治部少輔・窪島(くぼじま)日向守・清水三河守・大滝土佐守・小島内膳・夜交(よませ)左近・市河治部少輔信房がいる。現在のところ、四月中に当知行安堵をうけたもの、すなわち長可に臣従したことがわかるものはそれだけであり、のちの六月の上杉の場合とくらべて非常に少ない。武田を滅ぼしたからといって、武田の支配地だったところとその地の武士が自動的に織田の支配に入るわけではなく、織田軍の手がまったく入らなかった四郡は、長可自身が平定と在地の武士の編成を一からやらなければならなかったのである。