一揆蜂起す

931 ~ 934

四月五日、芋川親正(ちかまさ)を大将とする一揆が、森長可の入部に反対して蜂起した。信長の伝記『信長公記(しんちょうこうき)』は、

四月五日、森勝蔵、川中島海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣候の処、一揆蜂起せしめ、飯山を取り巻きの由注進候。

と記す。これによれば、稲葉彦六は飯山在城衆として派遣されたが、五日にはまだ城内に入れなかったとみられる。一揆はこの稲葉軍を攻めたのであろう。甲斐にいた信長父子からは稲葉勘右衛門や団平八らの加勢が急ぎ飯山に派遣された。

しこうして御敵山中へ引籠(ひきこも)り大蔵の古城拵(こしら)へ、いも川と云ふ者一揆大将致し楯籠(たてこも)る。四月七日、御敵、長沼口へ八千ばかりにて相働き候。則(すなわち)、森勝蔵懸け付け、見合わせ、どっと切り懸り、七、八里の間、追討(おいうち)に千弐百余討ち捕り、大蔵の古城にて女(め)、童(わらんべ)千余切り捨て、已上(いじょう)、頸(くび)数弐千四百五十余あり。此(この)式に候間、飯山取り詰め候人数は勿論引払ひ、飯山請け取り、森勝蔵人数入れ置き、稲葉彦六御本陣諏訪へ帰陣。

 織田の援軍がきたために、一揆勢は芋川(三水村)のあたりの山中にこもり、また、使用されていなかった大蔵城(豊野町大倉)に立てこもった。七日には八〇〇〇人もの一揆勢が長沼城の攻撃に向かったが、長可の軍勢に攻められ、逃げるところを一二〇〇人余りが討ちとられ、さらに大蔵城にこもっていた女性・こどもも討たれて、合わせて二四五〇人余りの頸(くび)が信長のもとに送られたという。大蔵城は落城、飯山攻撃隊も撤退し、一揆は多数の死者を出して鎮圧(ちんあつ)された。四月十一日、織田信忠は長可の戦功を賞してつぎのような感状を出した。

今度其表(そのおもて)において一揆駈催(かけもよお)し数千騎蜂起せしめ候ところに、早速馳(は)せ著き、一戦を遂げ、ことごとく討ち果すの旨、もっとももって神妙(しんみょう)の至りなり。

ことに大蔵城乗っ取り、かれこれ頸数三千余到来す。

 『信長公記』の記事は比較的信用できるので、信長のもとに届けられた頸の数はじっさいの数字に近いものであろう。これが信忠の感状では三〇〇〇余となっているが、あとで送られた分があったのか、誇張した数字かはわからない。いずれにしても、二五〇〇人近く、あるいは三〇〇〇人ほどもの人びとが長可軍に討たれたことはまちがいない。長沼城に向かった一揆勢の数が八〇〇〇人というのは、長可の側からの情報であり、誇張して伝えられたにちがいないから、信用はできない。一揆勢の数は不明というほかないが、城にこもった女性・こどもも入れて三〇〇〇人を上まわることは確実である。

 では、どのような人びとが一揆をおこしたのであろうか。大蔵城に一〇〇〇人以上の女性・こどももこもったことからみて、一村あげて一揆に加わった村がいくつもあったであろう。『信長公記』は先記の一揆鎮圧の記事のあとに、事後処理として、「森勝蔵、山中へ日々相働き、所々の人質取固め、百姓共還住(げんじゅう)申し付けられ」と記している。さきの記事にも一揆勢が「山中へ引籠」ったとあったが、芋川周辺の千曲川以西の山中の人びとが一揆の中心であったのであろう。長可はその地の村々・山々へ軍勢を入れて一揆に加わった人びとをさがしだし、あるいは服属を誓わせて村々から人質をとり、反抗を抑えこもうとしているのである。そして、春の農作業の時期であったから、村を離れた人びとの帰村(還住)をうながしている。村の百姓が一揆に加わっていたことはまちがいない。


写真35 大蔵城跡遠景 (豊野町大倉)

 芋川親正は、のちに上杉氏のもとで牧島城主となる有力な武士である。その武士を大将に百姓も加わって数千の人びとがなぜ結集したのであろうか。そこで注目されるのが、芋川が一向宗(いっこうしゅう)の門徒であったということである。江戸時代の天和(てんな)二年(一六八二)から翌年にかけて、飯山藩が領内の寺社領と由緒を書きあげさせたのをまとめた「寺社領并(ならびに)由緒書」という史料がある(『新編信濃史料叢書』⑭)。そのなかに、東本願寺末の芋川妙福寺は「開基永禄拾丁卯(ひのとう)年、芋川越前守殿造栄」とみえる。妙福寺開基が親正である。また、西本願寺末の長江(ながえ)(豊田村)真宝寺は「草創天正二甲戌(きのえいぬ)年造畢(ぞうひつ)之由、芋川乱当年迄百拾年、願主 芋川越前守殿家来小山源之丞殿建立」とある。親正の家来の小山源之丞が真宝寺を建てているのである。そればかりでなく、同寺は天正十年の一揆を芋川の乱といい、その蜂起の年を伝承し、開基の名にわざわざ「芋川越前守殿家来」と書いて、芋川とのかかわりを誇示しているかにみえる。

 北信四郡には多くの浄土真宗(一向宗)寺院と門徒がいて、信濃のなかではきわだった真宗地帯である。元亀元年(一五七〇)から天正八年(一五八〇)までの一〇年にわたって、石山本願寺(大阪市)が信長と戦った石山戦争では、四郡の坊主・門徒が中心となって、石山の籠城(ろうじょう)戦にはせ参じたり、兵糧米や軍資金を集めては本願寺に送った。本願寺が信長に無念の屈服をしてからわずか二年、仏敵信長の家臣が押しいってきたのである。芋川の乱と地元で伝承される一揆は、一向宗門徒を中核とした一向一揆の性格を強くもっていたと考えられる。

 長可は一揆が蜂起した四月五日に、康楽寺(篠ノ井塩崎)や勝楽寺(須坂市福島)、証蓮寺(松代町)に、翌六日には勝善寺(須坂市本上町)に禁制を発し、軍勢の濫妨狼藉などを禁じている。いずれも有力な一向宗寺院であり、このときに他の宗派に禁制が出された形跡はない。これも一揆が一向一揆の性格をもっていたことと関係がある。これらの寺はおそらく一揆には加わらなかった。しかし、一向宗であるから、長可の軍勢からは一揆方にくみしているとみられて攻撃される危険が大きかった。このため、長可に申請して禁制を出してもらい、寺を守ろうとしたのである。いっぽうの長可としては、それらに禁制を出すことで、寺が一揆方につくことを防ぐねらいがあった。こうして一揆は四郡全域に広がることなく、たちまちに鎮圧(ちんあつ)された。


写真36 康楽寺 (篠ノ井塩崎)