長可逃げる

935 ~ 935

森長可は四月いっぱい一揆制圧後の処理に追われたのであろうか。五月に入るとふたたび当知行安堵状が出されるようになる。五日には春日与三右衛門尉に安堵したのについで、七日には二一人の葛山(かつらやま)衆に連名で安堵状を出している。その名は表2のようである。また、二日には塚原五郎左衛門にたいし、坂木御堂山(坂城町)の松茸(まつたけ)林でみだりに草木を伐採(ばっさい)してはならないとの定書(さだめがき)を発し、二十日には窪島日向守(くぼじまひゅうがのかみ)の希望をいれて、清水東条で新知五七貫文を宛行っている。しだいに織田方の支配が浸透しつつあった。さらに五月二十七日には越後に侵攻し、関山(新潟県中頸城郡妙高村)・二本木(同中郷村)などを攻めた。


表2 森長可から安堵をうけた葛山衆

 しかし、長可の発給文書は少なく、在地の武士たちがこぞって出仕するという状況にはほど遠かった。一揆が敗れたのち、芋川親正は上杉景勝についた。四月十九日、景勝から、信州を上杉が支配するまでのあいだとして上杉景信の旧領を宛行われている。また、安部令右衛門・町田作左衛門ら一七人も上杉についた。五月二日景勝の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)はかれらにたいし、「今度当家へ別して奉公せしめ候間、信州十七騎の面々、各(おのおの)の持城を相違なく相構え致すべく候」と述べている。かれらの大部分はのちに井上衆としてみえるので、井上(須坂市)やその周辺にいた井上氏の旧臣であろう。しだいに長可の支配が軌道に乗りだす時期にあえて上杉氏についたのは、芋川と同じく一揆に加わっていたからではなかろうか。芋川とその家臣だけでなく、かなりの武士が一揆に加わっていたにちがいない。そうした人びとは長可に臣従することをきらい、村々に居ついて時勢をうかがっていたのであろう。

 このような状況で、信長といううしろ楯(だて)を失えば、長可は川中島に居つづけることはできない。六月二日、信長が本能寺の変で自刃すると、長可は逃走する。