森長可が逃げると、ただちに越後勢が入ってきた。天正(てんしょう)十年(一五八二)六月六日、上杉景勝は海津城の小幡山城守昌虎に服従をうながす手紙を送り、飯山城の実(み)城(本丸)への入城と所領の宛行(あてがい)を約束した(『信史』⑮)。景勝もまた北信支配の要は海津城の掌握にあると考え、小幡を海津城から出して、越後から人材を入れようとしたのであろう。しかし、小幡ばかりでなく、北信の諸将はだれでも情勢の展開を読みかね、すぐに旗じるしを鮮明にすることはできなかった。越後では下越(かえつ)の阿賀北(あがきた)で新発田(しばた)氏の反乱がつづいており、西では越中の前線が危機的状況におちいっていたから、景勝はただちに大軍を率いてみずから北信に出馬するというわけにはいかなかった。だから、力ずくで海津城その他の武将の城館を攻めおとすこともならず、またそれに時日を費やすことも得策ではなく、基本的に本領安堵と新知宛行を約束して服従をうながす方針をとったのである。
織田信長の死で信濃一国は大名のいない一種の空白地帯となったため、佐久からは関東の北条氏が、伊那からは徳川氏が侵攻してくるが、本格的な軍勢の投入はいずれも七月になってからであった。そのためまっ先に侵攻してきた上杉軍がだんぜん有利で敵なしの状況であったし、その好機に上杉方は在地の武将たちに服属を強く働きかけ、北信四郡ばかりでなく、安曇・筑摩・小県にまで勢力拡大をはかった。安曇・筑摩にはもと守護家出身の小笠原貞種を送りこみ、木曾義昌を追って府中(松本市)を手に入れる。
こうした形勢のなかで、北信の武士たちは上杉の優勢を感じとったのであろう。六月十三日の栗田民部介をはじめとして続々と上杉のもとに出仕し、忠節を尽くすことを誓った。栗田は本領を安堵(あんど)された。翌十四日には春日狩野介が二柳(ふたつやなぎ)(篠ノ井二ッ柳)を、同三河守が川中島の藤牧(更北稲里町田牧)を宛行われた。春日氏は一族四人がいっしょに出仕し、ほしい村を自分から申しでて新知を獲得している。十六日に景勝は市川治部少輔信房と夜交(よませ)左近助にたいし、服従したときに宛行う所領を書きあげて出仕をうながしている。北信の武士たちは、上杉の側の足元を見すかして、したたかに恩賞を獲得しようとしていた。しかしまた、出仕を引きのばして他に後れをとっては、かえって恩賞は小さくなる。六月十八日には葛山(かつらやま)(芋井)の桜・立岩・上野(うわの)・鑪(たたら)氏が望みどおりに本領安堵と新恩の両方を獲得した。
飯山城には市川信房・河野因幡守(いなばのかみ)家尚・須田右衛門大夫満統・大滝土佐守が立てこもっていたが、交渉が成立して、六月二十日に城が上杉方に引きわたされた。同日までに海津城の小幡昌虎や春日弾正忠(だんじょうちゅう)信達も服属した。もっとも有力な在地勢力の拠点であった海津城と飯山城を掌握したこのときをもって、北信四郡は事実上、上杉に掌握されたといってよいであろう。
この状況になってはじめて景勝は川中島に入る。六月二十四日に長沼城に着陣し、ついで海津城に入ったと考えられる。これにより、七月に入ると小県の浦野能登守が出仕してきたのをはじめ、原豊前守、須田対馬守、伊藤丹後守、大峡(おおば)兵部少輔ら、態度を決めかねていた武士たちが出仕してきた。海野出兵の準備をさせたり、西の拠点の牧島城(信州新町)に検使を送って守備態勢を点検し城普請を命じたり、北安曇(あずみ)の沢渡(さわたり)氏ら仁科衆から服属のしるしとして証人を取るよう指示したりと、信濃北半の掌握をめざして多面的な施策をおこなった。六月二十九日に西条治部少輔に本領を安堵し、筑摩郡嶋立(しまだち)(松本市)一〇〇〇貫文を宛行った。同日、上野沼田城(群馬県沼田市)の遠山丹波守に八幡宮(更埴市)神主の松田氏の旧領一三〇貫文余などを宛行っている。七月六日には北安曇の経略に功のあった西片(にしかた)次郎右衛門尉房家に本領を安堵し、新恩として北安曇の飯田・嶺岸・千国(ちくに)(白馬村)六〇〇貫文を宛行っている。
こうして北信の武将には所領増大の期待が大きくふくらんだし、上杉に出仕しないではいられない状況にもなった。出仕が遅れていた原民部右衛門尉、関肥前守、市川庄左衛門、同甚五郎の四人は島津淡路守忠直を頼んで上杉氏にわびを入れ、七月十二日になってようやく許され、本領安堵や新知宛行をうけることができた。したがって、北信四郡の武士の服属は七月はじめまでにほぼ完了していたのであろう。景勝のつぎの課題は四郡の支配体制を固めることであった。