四つの城と城主・郡司

938 ~ 943

上杉景勝の四郡支配の拠点のひとつとして、まず取りたてられたのが長沼城である。島津忠直がその城主兼郡司(ぐんじ)に任じられた。天正十年七月十三日付で忠直はつぎのような朱印状を景勝からあたえられている(『信史』補遺上)。

河北郡司の儀、葛山・大倉より山中を限り申し付くべく候。長沼要害の普請、伝馬・宿送りのほか、私用を申し付け、地下(ぢげ)等退屈あらば、太(はなは)だ然るべからず候。堅くその心得尤(もっとも)に候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。

 郡司としての管轄域は葛山・大倉より山中とあり、普請人足や伝馬・宿送りの人馬の徴発が郡司の役割であったことがわかる。同じ日、忠直は景勝から二九ヵ所、六六〇〇貫文余の所領を宛行われ、またそれとは別に六ヵ所の直轄領代官に任じられるとともに、代官給と推定される二ヵ所の所領をあたえられている。こうして七月十三日、長沼城は単なる守備のための城砦(じょうさい)ではなく、領国支配のための行政の役所と軍事的拠点を兼ねる支城として公的に定められたのである。島津忠直はそれに対応する郡司兼城主に任じられ、相応の所領を宛行われた。

 この七月十三日は、武田旧臣で海津城将の春日信達が謀反の罪で殺された日である。その日が上杉の新しい北信支配の体制がスタートした日であったということは重要である。海津城を北信支配の中核とするため、城主・城将の再編成をしようとする上杉の方針に信達は抵抗したのではなかろうか。信達の殺害を機に海津城の城主・城将の再編構想は実現に向けて新たな段階に入ったと思われる。城主兼郡司には、武田に抵抗して越後に逃れた村上源五景国(越後の名門山浦氏を継いで山浦源五と名乗っていた)を登用したのである。そこにかつての北信の雄の村上氏の名を利用しようとの意図があったかもしれない。しかし、これは本領復帰ではない。海津城は村上氏の城ではなかったし、村上氏の本領の坂木は屋代氏に宛行われているからである。

 八月五日、景国は郡司に任じられ、つぎのような印判状をあたえられた(『信史』⑮)。

   覚

一郡司の儀、春日古弾正(虎綱)申し付くる如くたるべきのこと。

   但し、長沼の儀は勿論(もちろん)、かの地より郡司入り候所を相除く。

   付けたり、牧島、馬場美濃守の在城の時の如し。

一越国の知行、相違あるまじきのこと。

一当地在城の侍共の訴訟の時、人を差し添えられ尤もに候こと。

一同心の者、罪科以下ありて断絶の時、かの跡職(あとしき)、分別次第に申し付けらるべきのこと。

一城林、信玄・勝頼の申し付けらるる如くたるべきのこと。

  以上

 郡司としての村上景国の権限は、前節で述べたように、武田のときの海津城将春日虎綱の権限を大筋で継承するものであった。長沼は島津の管轄地域として除かれ、牧島は海津郡司としての景国の管轄下にあったものとみられる。第三条は、前記のような虎綱の権限を継承するものとみられるが、在城衆全体の事実上の奏者(そうじゃ)の役割をもつ点で、虎綱よりも在城衆にたいするより強い統制力をもったことを意味する。第四条では、上杉の家臣で、景国の軍事指揮下にある同心の跡職の決定権が景国に認められている。これは大名の権限の分与である。したがって、在城衆や同心にたいする権限と統制力は虎綱より大きくなっている。これは郡司の権限というよりは、城主・寄親(よりおや)としての権限の強化を意味する。それは、新征服地の軍事力のほとんどを地付きの新参(外様)武士で編成しなければならなかった上杉の、外様衆統制策のひとつといえよう。しかし当然に北信の武士、ことに小幡昌虎のように武田のとき以来、城将として海津城のなかの一曲輪(くるわ)の守備を担当し、多くの所領をもって、城主と肩を並べるような軍事力・発言力をもってきたものの不満を生むことは必至であった。それは北信の中核たるべき海津城の機能を弱めるのみならず、敵対・謀反の火種を最初から抱えこむことになる。

 同じ八月五日、景勝は小幡昌虎に当知行地の小松原(篠ノ井)一三〇貫文・氷鉋(ひがの)(川中島町・更北稲里町)三〇貫文・信府(松本市)のうち八〇貫文を宛行うとともに、越後への移住を命じ、信州の所領の諸役免除特権をあたえた。同じ日、本領安堵や新知宛行と諸役免除特権をあたえられて越後への移住を命じられたものに、大滝土佐守・窪島(くぼじま)日向守・春日与三兵衛尉がおり、八日までにさらに井上彦二郎・戸狩采女(とがりうねめ)が越後移住を命じられた。火種を排除したのである。

 右のうちの大滝土佐守は前記のように、もと飯山城将であったから、この当時どこにいたかは不明だが、有力者の一人であった。おそらく右の人びとのなかには飯山城にかかわりのあるものがふくまれていたと思われ、海津についで飯山城の体制整備がおこなわれた。八月八日、岩井備中守昌能(まさよし)・同民部少輔信能父子にたいして、長沼城の島津にあてたのと同じような掟書(おきてがき)が出されている。この岩井が飯山城の城主兼郡司に任じられたのである。岩井は高梨氏の配下にあって越後に逃げたのち、頭角をあらわし上杉氏に重用されるようになったもので、飯山は上杉の属城であったときに一時的に配属されたこともあったが、持ち城であったわけではない。ただし、すでに六月から飯山城に入っていたと思われ、上倉(かみくら)氏らとともに城将の一人であったものが、この八日に公式に城主兼郡司に任じられたと考えられる。したがって、ここでも人員の出入り・再編がなされたと推定される。

 さて、これより先の七月二十六日、北信四郡の西の守りの要である牧島城の城主芋川越前守親正にたいし掟書が出されている。この時点で牧島城はきわめて重要な軍事的役割をになっていた。南から信州に攻めこんだ小笠原貞慶(じょうけい)が七月十七日に上杉方の小笠原貞種を追って府中を掌握し、さらに北進をはかっていたからである。北安曇を完全に掌握していなかった上杉は、北安曇の諸将の掌握と小笠原貞慶の北進阻止という二つの課題を、牧島を拠点として実現しようとしていた。牧島には芋川親正のほか、西片次郎右衛門尉房家・平林蔵人正恒(くろうどまさつね)らが城将となっていたから、有力な城将や同心にたいしどのような権限を行使できるか、かれらとの権限のちがいを明確化し、城主の権限を強化して指揮・命令を一元化して、統制と機動性のある軍事体制をつくる必要があった。五ヵ条からなる掟書はつぎのようである(『信史』補遺上)。

   掟

一牧島城中、不案(内)成る者の出入り堅く停止(ちょうじ)すべきのこと。

一同心・家中に限らず、芋川(いもがわ)の下知に背き、大途(たいと)を軽んずる族(やから)これあるにおいては、交名(きょうみょう)をもって申し越すべきのこと。

一忠信の者、非分狼藉(ろうぜき)を申し懸くるにおいては、深く折檻(せっかん)を加うべきのこと。

一敵地通融の者これあらば、様子つぶさに相尋ね、科(とが)歴然においては、下知(げち)に及ばず成敗を加うべきのこと。

一何事においても、大途・内儀共に、造作なきように分別致すべきのこと。

 第二条の家中とは芋川の家臣のことであるが、同心・家中に限らずとあるから、芋川が在城衆にたいする命令権をもつことが明示されている。命令に背き、かつそれが大途(大名上杉氏)を軽んずるものであった場合には、芋川から大名に名前を注進することができ、城主として強い権限を付与された。しかし、これは、第三・四条と異なり、芋川に成敗権がないことを意味している。芋川は大名に名簿を提出する権限はあるが、処罰等の措置は大名がおこなうのである。これは城将・同心らにたいする配慮であるとともに、城主の権限を大名が制約しようとするものである。第三・四条では、非分狼藉と敵地内通という明確な非法・敵対行為であること、速やかな対応が必要なことから城主に処罰権が認められたと考えられる。

 こうして、城主兼郡司のいる長沼城・海津城・飯山城と、郡司はいないが、最前線の重要な軍事的機能をになった牧島城の、四つの支城体制による北信支配体制が八月八日までに築かれたのである。