須田満親の海津入城

943 ~ 945

上杉景勝は天正十二年(一五八四)五月二十三日に春日山に帰城したが、秀吉の要請によって八月はじめにふたたび信州に出馬した。おそらく、家康を裏切って秀吉方についた木曽義昌を討つため徳川方の小笠原貞慶が木曽谷に侵攻したので、これを牽制(けんせい)するためであろう。その後十月には越中(富山県)に出馬して家康方の佐々成政(さっさなりまさ)を攻めた。越中では成政が天正十一年春から攻勢を強め、魚津(魚津市)・小出(富山市)両城を攻略して須田満親を追いつめていたし、越後との境にある堺城(下新川郡朝日町)には信州出身の岩船藤左衛門忠秀がいたが、これも成政に攻めたてられていた。こうした情勢のなか、越中経略は不可能とみたのであろう。景勝は天正十三年三月須田満親のところに富永備中守を派遣し、何ごとかを伝えた。須田氏を信州へ移すことはこのときには定まっていたのであろう。そして六月十二日満親は海津城に入ることになった。同日の景勝の朱印状に、

信州四郡の諸士ならびに堺の仕置、当春中相定むる如くたるべし。もし違犯(いぼん)の輩(ともがら)においては、交名(きょうみょう)をもって注進し、きっと下知を加うべきものなり。よって件(くだん)の如し。

とあり、北信濃四郡の武士と、敵方との境界防衛にたいしての軍事的指揮権が須田にあたえられた。同日、景勝は井上・松田ら信州侍にたいし、「海津の武主として」満親を派遣したので、万事その指図にしたがうよう指示した。十三年十月十日付で景勝は須田満親あてに三ヵ条の掟書(おきてがき)を発した(『信史』⑯)。

      掟

一四郡中あるいは盗賊、あるいは逆心を企(くわだ)つる者これ有るにおいては、甲乙人(こうおつにん)によらずきっと究明し、罪科の軽重(けいちょう)次第に流罪(るざい)・死罪の沙汰(さた)有るべきのこと。

一諸口の懸助等の儀はもちろん、太躰(たいてい)の調議に候とも、其方(そのほう)の分別次第、越国へ注進に及ばず申しつけらるべきのこと。

一諸士の軍役、近郡においては、本軍役の二増倍にて相勤むべきのこと。

 一条は、満親が四郡全体について、盗賊や謀反(むほん)といった重罪犯にたいする警察と裁判の権限(検断権(けんだんけん)という)をもつことを認めている。景勝に報告してその指示を仰ぐ必要はなく、満親の判断で処罰することができる。二条は軍事行動について、敵方との境界での防備はもちろん出兵等についても、基本的に満親の判断のみで景勝の許可を得ることなく、四郡の武士を動員できるとしている。そのさいに近郡への出陣であれば定まっている軍役の二倍の兵力の提供を諸士に義務づけ、その徴発の権限を満親に認めたのが三条の規定である。

 これは、海津城主の地位と役割がそれ以前の二代の城主のときと質的に変化したことを示す。大名景勝がもっていた権限のうちの検断権と軍勢催促・軍事指揮権が、四郡内の治安維持と領土防衛にかかわる限りにおいて、ほぼ全面的に海津城主に委譲(いじょう)されたのである。ただし、景勝がそれらの権限を失ったわけではなく、海津城主の権限はあくまで景勝によってその大名権のもとで付与されたものでしかない。四郡の領有権と土地の安堵(あんど)・宛行(あてがい)権、軍役量の決定権も景勝にあって、満親がそれを部分的に委譲されることはあっても、大名の決定を破ることはできない。信州侍はあくまで大名上杉氏の家臣であって、海津城主の家臣ではない。三ヵ条が検断権と軍事指揮権に限られているのはそのためである。しかし、満親の権限は長沼城主や飯山城主ら支城主の権限とは明確に異なり、その上位に位置する。

 なぜ景勝は満親に大きな権限をあたえたのであろうか。それは、満親が北信濃の須坂の出身であるというだけでは説明できないであろう。これまで景勝は山浦(村上)景国、上条宜順(じょうじょうぎじゅん)(景勝の妹婿)という一門を海津において、軍事的緊張にさらされ不安定な北信の諸士の求心力を形成しようとしてきた。しかし、軍事行動などの指令は景勝から直接岩井・島津その他の諸将に出された。そこを変えようというのである。越中駐留によって満親は軍事指揮者としての能力を高く評価され深い信頼を得たのであろう。また、秀吉との交渉、同盟関係形成にみられた外交交渉能力や人脈への評価もあったであろう。この点は、秀吉が関白(かんぱく)に就任(天正十三年七月十三日)したことで将来に向けても重視すべきことであった。また、天正十三年七月の真田昌幸と景勝との同盟関係の成立にも満親が一役かったにちがいない。つぎに述べるように北信をとりまく情勢は大きく変わりつつあり、景勝は北信支配を満親にまかせて、新発田(しばた)重家の討滅と出羽(山形県)進出に力を注ぎたいと考えていた。