上杉・真田同盟

945 ~ 948

前記のように、天正十年(一五八二)の和議で徳川家康は真田昌幸の上野国吾妻(あがつま)・沼田領を北条が支配することを認めた。しかし、昌幸は引き渡しを拒否しつづけ、北条から引き渡しを迫られた家康が天正十三年にも説得をしたが、昌幸は応じなかった。家康は羽柴秀吉への対抗策として北条との同盟を重視しており、家康と結んでいる限り自分の領土を守ることはむずかしいと判断した昌幸は、家康と対抗関係にある上杉景勝に接近していく。

 両者の同盟交渉は成立して、天正十三年七月十五日付で景勝から昌幸宛に出された起請文(きしょうもん)は九ヵ条からなっている(『信史』⑯)。その一条には「今般先忠に復さるるの上は」とか「悃(こん)(懇)意(い)を加うべきの事」とあり、これが対等の同盟ではなく、上杉を上位において真田は下位に立つ同盟であったことを示している。須田満親(みつちか)に命じて信州で知行を宛行(あてが)う(四条)としているのはこれと関連する。真田にとって徳川・北条の攻撃がすぐにも予測されたから、二条ではこれにたいし上杉が救援をおこなうことが約束された。五条から八条はつぎのようである。

一沼田・吾妻・小県郡。

  付けたり、坂木庄内の知行、相違有るべからざるのこと。

一佐久郡・甲州両所において一郡ならびに上州長野一跡いだし置くべきのこと。

一屋代一跡、右同前のこと。

  一根津(禰津(ねつ)昌綱)の身上、よろしく相計らうべきのこと。

 第五条はじっさいに真田が支配下においている地域の領有を認めたものであるから、付けたりとなっている坂木荘内の知行分は、場所は不明だが、真田が当知行を主張した土地とみられる。第六条は上杉が宛行いを約束したというよりは、真田が自力で支配できれば認めるという程度のものであるから、第七条の屋代一跡も埴科郡内など四郡中で上杉があたえた屋代秀正旧領ではなく、徳川に属してから秀正があたえられた所領であろう。第八条の禰津昌綱は真田と同族の小県郡の有力武士で、真田への服属をこばんで独自に家康にしたがって本領安堵をうけていたから、これを家康方から寝返えらせることが必要であり、そのはからいを上杉方が引きうけたことを示す。

 この同盟によって北信四郡の東から東南部の境界が確立され、互いに侵害される危険がなくなった。景勝による須田満親への掟書三ヵ条の権限付与は、この情勢変化があってなされたことである。

 家康は真田の寝返りを怒り、ただちに出兵の準備にとりかかる。天正十三年八月二十日には小笠原信嶺(のぶみね)ら伊那郡の諸将に出陣を命じている。二十六日にはすでに、佐久・諏訪や、甲州の徳川軍が禰津(小県郡東部町)に陣をとっている。真田方からはしきりに援軍要請が満親のもとにきていた。そして人質として昌幸は次男信繁(のぶしげ)を上杉に差しだした。ところがこのとき、長沼島津・飯山岩井・栗田衆は春日山城に召集されていて、満親は援軍を送れないと景勝に訴えている。景勝の命をうけて、井上・市川・夜交(よませ)・西条(にしじょう)・寺尾・大室(おおむろ)・綱島・小田切・保科・清野・栗田可休斎らの軍勢が救援に向かった。こうして真田軍は伊勢崎城(上田城)によって徳川の大軍と戦い、閏(うるう)八月二日には国分寺(上田市)の合戦で徳川軍を破っている。同月二十日には丸子城(小県郡丸子町)が攻撃されたが、守りきった。徳川軍の出兵と連携して、同盟者の北条は上野沼田を攻撃したが、上杉勢の越後からの援軍もあって、矢沢綱頼がこれを退けた。九月には島津忠直・岩井信能(のぶよし)・栗田永寿(えいじゅ)らの軍勢や百姓らが上田城の普請に従事している。徳川・北条連合軍はけっきょく戦果なく兵を引いた。


写真38 現在の上田城南隅櫓 (上田市)

 真田昌幸は上杉と同盟したことで、秀吉と結びついていくことになる。昌幸が秀吉方に書状を送ったのは家康との対戦中のことであろうか。これにたいし十月十七日付で秀吉の返書が出された。「其方(そのほう)の進退の儀、いずれの道にも迷惑せざるように申し付くべく候間、心易(やす)かるべく候」と、昌幸の地位の保全を保障した。これにつづけて「小笠原右近大夫といよいよ申し談」ずるようにと書いてあるから、小笠原貞慶がこれ以前すでに家康から離れて秀吉に通じていたことがわかる。こうして、北信四郡をめぐる軍事情勢は天正十三年秋には一変し、三年余のきびしい緊張と戦乱のときを脱して安定化へと向かうのである。