秀吉と結んで大名の地位と領土の保全をはかった上杉景勝は、秀吉に上洛(じょうらく)を強要されて、ついに天正十四年(一五八六)五月二十日春日山を出立した。関白となった秀吉に、臣下の礼をとるためである。信濃の武士たちも景勝にしたがって上洛した。加賀国で石田三成の出迎えをうけて、六月七日に京都に入った。十四日に大坂城で秀吉に対面し、二十二日には秀吉の取りはからいで従四位下、左近衛権少将兼弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の官位を得、翌日に参内(さんだい)した。二十四日帰国の途につき、七月六日春日山に帰った。この上洛を機に、秀吉からは景勝を従者とみなしてさまざまな命令が発せられるようになる。
徳川家康の攻撃を退けた真田昌幸は、攻勢に転じて、家康の支配下にある佐久郡に侵攻していた。このため家康は佐久郡出兵をはかるが、一刻も早く家康の上洛・臣従を実現したい秀吉側は、上洛中の景勝と真田の処遇について協議し、家康が上洛すれば真田を家康に所属させることを景勝に認めさせた。八月になると、家康方に真田を討ちはたすことを認め、景勝には真田支援を禁じた。そうして「信州の郡割」すなわち領土分割は秀吉の裁定にしたがい、家康と入魂(じっこん)の間柄になることを求めた。しかし、家康の上洛に向けて道筋が整えられてきた九月下旬、真田成敗はとりやめとなり、十月にはついに家康が上洛して臣下の礼をとった。十一月四日、秀吉は「真田・小笠原・木曽両三人の儀も、先度其方上洛の刻、申し合わせ候ごとく、徳川所へ返し置く」こと、景勝の意向を尊重して真田を赦免(しゃめん)し知行を安堵することを景勝に報じた。こうして、全国平定を急ぐ秀吉と、家康との政治的駆け引きによって、北信四郡は上杉領、残りは徳川領という豊臣政権下の信濃領有体制が天正十四年十月末に定まったのである。
天正十六年五月、景勝はふたたび上洛し、八月二十六日、春日山に帰った。これにしたがった須田満親・直江兼続(なおえかねつぐ)・色部長真(いろべながざね)の三人は秀吉から豊臣姓をあたえられ、大名に準ずる格を得ている。満親は海津に入る前から相模守の受領名(ずりょうめい)を称していたが、天正十七年十二月三十日には朝廷から相模守・従五位下の官位を公式にあたえられた。すべて秀吉の政策によるものであり、秀吉は武家の官位の決定権を掌握し、領土の安堵・宛行による主従制の形成と官位とによって、大名や須田のような大名配下の有力武将を秀吉のもとに統一的に序列化し、組織していったのである。ところが、そのような秀吉の政策に最後まで抵抗したのが関東の北条氏である。北条は上洛を引きのばして、天正十年以来真田と争っていた上野沼田領の三分の二を秀吉の裁定で獲得した。しかし、沼田城に入った北条家臣の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、天正十七年十一月三日に真田の属城名胡桃(なぐるみ)城を攻めとって、秀吉の裁定に違反した事件を機に、秀吉との決戦は避けられないものとなった。秀吉は十一月二十四日付で来春の北条討滅を宣言し、真田をはじめ諸大名に準備を命じた。
上杉・真田にとってははじめて秀吉遠征軍の軍役をつとめることになり、上杉景勝には一万人、真田昌幸には三〇〇〇人の軍役がかけられ、加賀の前田利家軍とともに北国勢を構成した。一万人のうちには多くの信州衆が動員されたであろう。このとき昌幸は家康から独立して軍役をつとめ、別の軍隊に編成されていることが注目される。北条氏の降伏後、家康が関東に移封(いほう)となり、信州の所領を没収されたときに、小笠原氏が家康について下総古河(しもうさこが)(茨城県古河市)に移ったにもかかわらず、真田は本領を離れなかったのもそれと関連しており、秀吉側には遅くとも天正十八年(一五九〇)はじめには独立した豊臣大名として真田を処遇しようとの方針があったと思われる。
北国勢は信濃から碓氷(うすい)峠を通って天正十八年三月に上野に入り、松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)を攻め落とし、武蔵にすすんで鉢形(はちがた)城(埼玉県大里郡寄居(よりい)町)、八王子城(東京都八王子市)、忍(おし)城(埼玉県行田市)などに転戦した。そればかりでなく、景勝は落城後の八王子城の普請・守備を命じられて、春日山から須田右衛門大夫長義ら二〇〇人ほどを緊急によびよせている。七月五日に北条氏が降伏したことで小田原合戦にいちおうの決着がついた。北条旧領が家康にあたえられ、信濃をふくむ家康の旧領は秀吉にとりあげられた。さらに秀吉は会津(福島県)にすすみ、多くの大名・国人(こくじん)をとりつぶして、蒲生(がもう)氏ら側近の大名を入れるという形で、奥羽支配を断行しようとした。
小田原の陣で出羽南部の庄内地方(山形県)の支配を認められた景勝も、庄内からさらに北の仙北(せんぽく)・秋田地方(秋田県)の検地を命じられ、多くの信州衆も動員して、きびしい軍事体制のもとで検地をすすめた。景勝は新領土である庄内地方の支配のため、大宝寺(だいほうじ)城(鶴岡市)に木戸元斎(げんさい)、尾浦城(鶴岡市)に島津忠直、藤島城(東田川郡藤島町)に栗田刑部(ぎょうぶ)、酒田城(酒田市)に須田満親、観音寺城(東根市)に寺尾伝左衛門、菅野(すがの)城(飽海(あくみ)郡遊佐(ゆさ)町)に市川対馬守をおいたといわれる。木戸氏を除いてすべて信州衆である。これは信濃の支配が安定したこと、信州衆を本領の地から引きはなそうとしたことによるものであろう。
ところが、九月になるとこうした外来者の支配にたいし、とりつぶされた大名の旧臣や百姓らは、一揆(いっき)を結んで抵抗し、武装蜂起(ほうき)して豊臣方の武将の城を攻撃するようになった。一揆は急速に奥羽全域に広がり、出羽でも庄内や仙北で一揆が蜂起し、砦(とりで)に立てこもって上杉軍と戦ったが、やがて鎮圧される。仙北一揆への攻撃軍のなかには信州の人戸狩采女(うねめ)頼世がいて、一揆勢から二五〇本の大刀(たち)、一三三六丁の鑓(やり)、二六丁の鉄砲など多数の武器を没収している。また、立岩喜兵衛・上野源左衛門は庄内一揆の鎮圧に従事していた。一揆は翌天正十九年(一五九一)にも、さらにつぎの文禄元年(一五九二)にも各地で蜂起した。天正十九年には上杉・真田にも再度出陣命令が出された。同年七月、栗田永寿は、陸奥岩代(いわしろ)地方(福島県)での戦功を景勝から賞されている。文禄元年九月には、出羽にいた芋川親正・栗田永寿らに九戸(くのへ)・藤島(岩手県・青森県)一揆にたいする出陣命令が豊臣奉行から直接出されている。
こうした連年の出陣がつづくなかで、天正十九年七月二十二日、翌年の朝鮮出兵のさいに負担すべき軍役の指示が秀吉から出された。出兵の日本側の基地となる肥前名護屋(なごや)(佐賀県東松浦郡鎮西町)には、上杉が五〇〇〇人、真田が七〇〇人を率いて出兵し、そのうちから朝鮮に渡海すべき人数は上杉が三〇〇〇人、真田は五〇〇人と定められた。文禄元年三月一日、上杉軍は春日山を出発、京都をへて四月上旬名護屋についた。このなかに高梨頼親とその家臣がいた。また、記録では確認できないが、長沼城主島津氏が渡海したもようで、同氏の子孫に朝鮮から持ち帰ったといわれる皮革製の漆皮箱(しっぴばこ)が伝えられている。景勝自身も文禄二年六月に秀吉の名代として渡海し、朝鮮南部の熊川(ウンチョン)城の築城に従事して九月に帰国した。このあいだに戸隠山本院の住僧であった賢栄は景勝の無事を祈念したことから、翌三年景勝の支援によって社殿再建を果たした。しかし、他の部隊と同様、上杉勢のなかには朝鮮で命を落としたもの、病気になって帰国したものが多数いたし、なによりも朝鮮の人びとへの残虐(ざんぎゃく)行為は数えきれないほどであった。
秀吉はこの戦争を通じて、日本全国の武士をみずからの戦争に総動員する体制づくりを完成させた。景勝らは休む間もなく、今度は秀吉の隠居所である伏見城(京都市)の築城工事を命じられ、文禄三年正月、景勝は四〇〇〇人を率いて上洛した。際限のない軍役にかりたて、大名・武士を思いのまま転封(てんぽう)させることで豊臣政権の基盤は安定すると秀吉は考えたのであろう。慶長三年(一五九八)正月十日、景勝は突然に「会津へ国替(くにがえ)」を秀吉から命じられる。