いわゆる定納員数目録は表紙に「文禄三年定納員数目録」と記され、上下二冊からなるが、原本が伝えられず、江戸時代末期の写本のみが残されている(『新潟県史』別編3、『新編信濃史料叢書』⑫)。原形とは異なる加筆・改変があり、使用には注意を要するが、文禄三年時点での上杉家臣団の全体像を考えるのにもっとも役立つ史料である。ここに名前ののる家臣の数は約二〇〇〇人で、一人ずつに石高の定納高と軍役数が記されているが、それらはいくつかのグループに分けられる。まずはじめに①「越後侍中定納一紙」で始まるグループが一四三人、つぎに景勝譜代の直臣である②「五十騎衆定納之一紙」のグループが一〇〇人、ついで③直嶺衆、三条衆など越後・出羽庄内・佐渡の各城ごとの在番城衆がつづいたあとに、④「信州侍中定納一紙」で始まるグループが登場する。
この四グループのいずれにも信州出身者とみられるものの名があるが、①越後侍中のなかに表3のように信州出身もしくは信州から移ったものが多くいる。このうち、戸狩・大滝・窪島(くぼじま)・春日・小幡(おばた)は天正十年八月に信州から越後への移住を命じられたもので、他の小田切主水正(もんどのしょう)以下の人びともその後まもなく同じように信州から移されたのであろう。これにたいし山浦源五から大峡織部佐(おおばおりべのすけ)までは天文二十二年前後に武田信玄の攻撃から逃れて上杉氏を頼った人びとであろう。このうちの楡井(にれい)又三郎から大峡織部佐までは、謙信の代の馬廻(うままわり)衆を中心とするグループに入る。大峡織部佐は景勝直属の御手明御弓衆の大峡織部組七四人(人名は九四人記されている)を率いている。もともと井上氏に属していたものが、上杉に属してから信任を得て取りたてられたのであろう。この組には大峡をはじめ酒田・成田・上野など信州出身者とみられる名が多い。また、御手明御手鑓(てやり)衆の横田大学組三〇人を率いた横田大学助も同じような経歴の信州出身者であろう。
④信州侍中は表4のように一九人からなり(仁礼衆分と手明衆は除く)、「貝(海)津留守役」「猿ヶ馬場留守役」といった肩書きが付されている。こうした肩書きが目録に最初からついていたかどうかは疑問であるが、じっさいの在城状況とほぼ一致する。そして、このほかの信州在国の武士たちはほとんどがこの信州侍中の同心あるいはそれに率いられる衆として目録に名がのっている。
まず、「信州長沼島津淡路守同心」として七人(表5)、「桂(かつら)(葛)山(やま)衆島津抱(かかえ)」として二五人がいる(表6)。後者は葛山城(芋井)周辺の土着性の強い地侍たちを中心とする武士団であるが、春日民部や、越前出身とみられる三段崎(みたさき)、関東出身の江戸・川越氏といった外来者が加わって、上杉氏による再編成があったことがわかる。
海津須田満親の同心は一二人(天神領免・神明料・広田大夫を一人とみなす)で(表7)、満親抱えの屋代衆が二五人いる(表8)。また、福島(ふくじま)城(須坂市)が同人抱えとなっていて、一族の須田左衛門尉を筆頭に同心二二人が在城していた。このほか、井上左衛門大夫同心の井上衆が一九人(表9)、岩井備中守同心の岩井衆が一九人、芋川越前守同心の牧島衆が一二人、市川長寿丸同心の市川衆が九人、清野助次郎同心の猿ヶ馬場衆が一一人、平田尾張守同心が八人いる。これらの同心はすべて上杉家臣であり、城の守備や出陣などのさいにそれぞれ井上、岩井などを寄親(よりおや)としてその軍事指揮下に入るという関係である。これとは別に塩崎城(篠ノ井塩崎)の守備兵として、五二五石で三一人の軍役の清水三河守とその同心五人が、東条(ひがしじょう)城(松代町)の守備兵として、五一五石で三一人の軍役の東条加賀右衛門とその同心五人がいる。
後述するように、この定納員数目録に名がのった人びととその被官・奉公人は、わずかの例外を除いてすべて慶長三年に会津へ移った。葛山衆・屋代衆・井上衆はその後もほぼ同じ構成を維持して慶長五年出羽にいたことがわかるので、表にその情報を加えた(「慶長五年直江支配長井郡分限帳」『信史』⑱による)。東条城にいた東条加賀右衛門が知行高を減らして屋代衆に加わっていることがわかる。