文禄四年の太閤検地

957 ~ 961

さて、この帳面の「定納員数」とは家臣の所領の定納高すなわち収納高をいう。この定納高はどのように決定されたのであろうか。この帳面で信州侍中の夜交左近助(よませさこんのすけ)昌国の定納高は五五八石七斗九升一合であるが、同年十一月二十日に同人は大日方主税助(ちからのすけ)・桜靫負助(ゆげいのすけ)・松本大炊(おおい)助あてに「下し置かるる知行定納の覚」と題して、所領三ヵ村について京枡(きょうます)での定納高を記し提出している。それによれば、夜交之村(山ノ内町)が四七七石七斗八升九合、新野(しんの)村(中野市)が三二石七斗二升四合、岩舟之村(同)が三四石一斗四升九合六勺で、合計五四四石六斗六升二合六勺を定納高として申告している。この石高は籾を六合摺(す)りにした場合の数字で、秀吉が全国統一の公定枡とした京枡に換算している。所領の単位が村になっていること、京枡を使った石高で所領の大きさをあらわしていることなど、豊臣政権の政策の強い影響がみられる。豊臣政権の政策に対応するためにおこなった施策であることを示す。昌国は最後に「右のほか一銭も私曲(しきょく)はありません。もし万一検地をして過上(検地増分)の耕地がみつかったなら、それを没収されてもかまいません。そのときには異儀は申しません」と、申告に不正がないことを誓っている。

 この文書の定納合計高と、目録の高とのあいだには一四石ほど差がある。その理由はわからないが、このようにして家臣一人ひとりから収納高を申告させて、目録に記載される高が決定された。その高にたいする軍役数は一〇〇石につき六人を基準としている。この割合は、それまでに秀吉からかけられた軍役のうちでもっとも割合の高かった天正十八年の関東出兵のときの軍役数と一致している。秀吉からの軍役賦課に対応しうる体制をつくりだす必要に迫られていたことがよくわかる。定納高の確定は主人の御恩の大きさを、軍役数の確定は御恩にたいする奉公の量を、ともに数字で比例関係で確定することになり、主従関係を合理的、安定的で確かなものにする役割も果たした。

 こうして家臣の知行高を確定しておいて、検地をおこなう。前記の夜交の提出文書の末尾で検地について言及されていたが、定納員数目録の作成は検地を前提とした作業でもあった。豊臣政権から検地の指示がきていたのであろう。秀吉は全国に太閤(たいこう)検地をおこなって、統一した基準で全国の石高を把握し軍役をかけたいと考えていた。そうすれば大名の転封(てんぽう)も容易におこなうことができ、検地をすればかならず石高が増えたから、それで直轄領を増やしたり、新恩加増や新しい大名の取り立てもできるし、軍役も増やすことができるからである。このような利点は、検地後も領国の範囲に変更がなければ、大名の利点でもあった。すでに家臣の知行高は定まっているから、検地で増えた検地増分を直轄領にすれば大名の財政基盤を強化でき、家臣に新恩加増すれば軍役を増やすことができる。上杉にとってはとくに前者の期待が強かったと思う。

 上杉景勝は天正十八年(一五九〇)に出羽で太閤検地をおこない、文禄元年(一五九二)に佐渡でも検地をおこなっていたが、文禄三年から四年にかけて代官立岩喜兵衛が出羽庄内で検地をおこなったのにつづき、文禄四年に越後・北信で広域にわたる統一的な検地としてははじめての検地をおこなった。秀吉からは五奉行の一人増田長盛(ましたながもり)が派遣されて指揮・監督にあたったが、現在残る検地帳からみると、長盛の家臣と景勝の家臣がそれぞれ別の村を検地した例が多く、北信でただ一つ残る中氷鉋(なかひがの)村・下氷鉋村(更北稲里町)検地帳の表紙には長盛の家臣大橋才次の名と黒印がしるされている(『信史』⑱)。日付は文禄四年九月二十九日である。記載様式は、

中ほり                      おはた分

上畠[十六間/廿間] 壱反廿歩   一石六升     藤七

                         同分

中畠[廿間/廿間]  壱反三畝十歩 一石四斗六升六合 同人

                         寺尾殿分

下畠[二間/十間]  廿歩     四升       新九郎

のようで、太閤検地の様式である。田畠には等級をつけ、面積と分米(ぶんまい)と名請人(なうけにん)を記す。居屋敷には等級がつかないが、他は同じである。一反あたりの石盛(こくもり)は中田(ちゅうでん)一石一斗、下(げ)田九斗、下々(げげ)田六斗、上畠(じょうばた)と屋敷は一石、中畠八斗、下畠六斗で、合計面積五一町一反八畝、石高四三七石四斗三升となっている。石盛(斗代(とだい))は太閤検地の基準値より二斗ほど低く設定されており、現地の実態にいくらか配慮したといえよう。

 帳面の末尾には須田満親の黒印がすえられているから、四郡の村々の検地内容と石高の把握が海津城主によっておこなわれてから、村々に検地帳が渡されたのであろう。このころをもって検地はほぼ終了し、十月に入ると「越・信両国の御検地帳、目録一紙以下」が財政担当者に渡された(『信史』⑱)。越後の例でみると、この検地で二~三倍かそれ以上の過上がでたところも少なくない。

 ところが、上杉氏はこの検地の翌年慶長元年(一五九六)から二年にかけて、太閤検地とはまったく異なる上杉独自のやり方で再検地をやっている。太閤検地が、上杉や家臣がじっさいに年貢を収納するのに役に立たなかったからであろう。しかし、太閤検地によって定まった石高は上杉領国の石高として豊臣政権に把握され、景勝が秀吉にたいし負担する軍役高のもとになったのである。