慶長三年(一五九八)正月上杉景勝の会津国替えが発令されたが、国替えが決まると、それまでの領土と城は秀吉から派遣される上使に引き渡さなければならない。北信の人びとはすでに天正十八年(一五九〇)に家康が関東へ国替えになったときにそれを見聞していた。家康にしたがって小笠原貞慶・秀政父子とその家臣たちも信濃から去ることになったとき、上使として石川数正・同光吉が派遣された。ところが、そのときに上杉家臣の春日元忠・松本大炊助(おおいのすけ)・香坂紀伊守・保科豊後守らが青柳城(東筑摩郡坂北村)・日岐大城(ひきおおじょう)(同郡生坂村)・千見(せんみ)城(北安曇郡美麻村)に軍勢を入れて、上使への引き渡しをこばむという重大事件を引きおこした。元忠らは、これらの城はもともと上杉の属城だったのだから、上杉のものになるべきだと考えたのであろう。じつは上杉方はこのうちの一つの城を奪い取ろうとして天正十八年正月に秀吉から制止されていた。そうした考えは北条方が真田の名胡桃城をほんらい北条に属すべき城として実力で奪いとったのと通ずる考え方であり、戦国武将共通の意識であった。
秀吉はそうした考え方を否定し、領土の範囲は秀吉が決定すると宣言し、それにしたがわなければ討ちほろぼすとおどした。すでに青柳城以下は小笠原の支配下に入って久しく、秀吉は、それらはみずからも認めた小笠原の当知行だったという立場で引き渡しを命じた。したがって、元忠らの占拠は、北条や天正十四、五年の真田と同じく成敗の対象とされるほどに重大な事件であったが、赦免という形で決着したとみられる。
さて、上杉の国替えでは豊臣方から石田三成が派遣され、上杉領の城の受け取りと会津の旧領主蒲生氏の城の受け取り、上杉への引き渡しにあたった。二月十日、直江兼続は、海津城・長沼城を三成の奉行に引きわたす任務をおった今城次左衛門尉・木村造酒丞(みきのじょう)に一七ヵ条にわたって指示を出した(『信史』⑱)。その第一条では、城中の戸・障子・畳などが所定の場所にあるか、とりちらしてないかを調べ、念を入れて、海津は須田満親から、長沼は島津義忠から受けとり、三成の奉行への引き渡しのさいには目録を渡して、奉行から受取書をとるように命じている。これが城の引き渡しの手順であった。奉行は二〇日ほど信州に逗留(とうりゅう)して越後を経由して会津へ赴くことになっており、今城らは奉行に同行し、逗留・通行中に要する米や馬の豆を規定のとおり引きわたし会津まで案内する役目を負っていた。
侍とその家族の引っ越しは二月十日以後始まったようで、まだ雪深い時期に北信からだけでも数千人が長い道中を移動するのだから、多くの困難と混乱が予想された。このため一七ヵ条のうちに具体的な指示がある。まず、引っ越しの荷物は各人の所領の百姓を人足として運ばせよ、いやがるものは成敗するとある。会津へのルートは関東を通るか、越後直江津まで出て船に乗るか陸路を行くかは各人の自由とされた。信州衆のなかには、当時上洛して伏見(京都市)にいた景勝にしたがっているものもいたので、その留守宅の妻子・荷物の引っ越しが円滑におこなえるよう代官に手配させた。
前年慶長二年分の上杉直轄領の年貢米は城内の蔵や代官の管理下にあったが、これを売って金銀にかえるのが毎年のやりかたで、まだ売り値が安ければ高くなる夏まで待つこととし、直江津まで駄賃を払って運び、船に乗せて敦賀(つるが)(福井県敦賀市)へ送るよう指示している。引っ越すものたちも米などを大量に運ぶことは困難で、費用もかさむことから、金銀や銭にかえることを望んだであろう。これを見すかして各地から商人が入りこみ、米などを安く買いたたいていた。
年貢などはその年の年末までに納める定めであったが、二月になってもまだ納めていない(未進(みしん))ものがあり、またそれ以前の未進分が負債(借物)となっている場合もあった。これを百姓ごとに調査するよう命じている。麻年貢の徴収も命じた。もしすぐに麻が納められないようなら、そのかわりのものを取りたてるか、それも無理なら、麻の木ごと差しおさえよと指示している。慶長二年分までの年貢等の徴収権は上杉にあったから、何がなんでも取りたてて去るという方針であった。
右の一七ヵ条とは別に、同日付で上杉家臣、ことに末端の地侍・奉公人をふくめて家臣の百姓にたいする不法行為などを禁じた一二ヵ条の掟書(おきてがき)が出されている。前々の法度(はっと)を守ること、一銭なりとも百姓に不当な申し懸けをしてはならない、百姓に不法行為があっても上杉氏に披露せず私的に処刑してはならない、公用で村々に行って宿泊する場合には木賃(きちん)を渡すこと、野菜・秣(まぐさ)・人足・伝馬(てんま)を申しつけてはならない、菓子や進物(しんもつ)を受けとってはならない、町人・百姓にたいし押し売り・押し買いなど不当な行為があればただちに成敗する、といったことが列挙されている。これらの多くはこれ以前から家臣の守るべき法度として定められていたにちがいないが、引っ越しの混乱期にあたってあらためて周知徹底をはかる必要があり、出されたとみられる。
自分の所領内の百姓は自由に使役し、不必要なほど物や銭を出させ、不法行為をすれば処罰できる、と考えるのが数百年来の領主の伝統的な考え方であった。しかし、戦国時代にはそれが通用しなくなり、豊臣政権は法を定めて明確に否定した。百姓は大名やその家臣に私的に所属しているのではなく、公儀(こうぎ)のものであるというわけである。だから大名は家臣や奉公人はすべて連れて国を移るが、百姓は連れていくことができない。秀吉の上使が国と城を受け取りにきている最中に、家臣が公儀の法に触れる行為をして百姓と争いをおこせば、秀吉からどんな処罰をうけるかわからないという危惧(きぐ)が強かったであろう。
前掲のように家臣の非法行為を列挙した条文のなかで異色なのは、第五条で困窮し逃亡した百姓をその村として尋ねだし連れもどさせよといい、第六条で困窮の百姓への無利子での借米の手当てについて指示している点である。これは、公儀の百姓が村にあって農耕をつづけられるように取りはからうのが、大名・領主の責務であるという認識から出た指示であろう。それは豊臣政権の法でもあった。そうして公儀の百姓をあるべき状態にして引きわたす義務があったのである。
こうして上杉の家臣たちは、悴者(かせもの)・小者・中間(ちゅうげん)にいたるまで、住みなれた地を去っていった。しかし、須田満親は会津には行かず、この地で死去した。病死とも自害ともいわれるが、真相は明らかでない。松代町の浄福寺は満親が中興開基となった寺と伝え、同寺の過去帳には満親の戒名として「興国院殿得翁浄慶大居士」の名がみえ、同寺がもとあったという尼巌山麓(あまかざりさんろく)の「寺屋敷」付近の斎藤宅には位牌があるという。また、近くに大きな五輪塔があって、満親の墓ではないかといわれているが、確かなことはわからない(『長野』四四号)。満親の後継者須田長義は新領地で二万石をあたえられ陸奥梁川(やながわ)城(福島県伊達郡梁川町)の城将となったし、そのほかに信州出身者で城を預けられたのは表10のとおりである。会津一二〇万石の大大名となった景勝のもとで、いずれも知行高が増えている。しかし、喜びもつかの間、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で上杉は反徳川方に立ったことから、翌六年出羽米沢(山形県米沢市)三〇万石に転封となり、わずか三年で知行高は激減した。江戸前期にさらに一五万石に減り、藩士たちは江戸時代を通じてきびしい窮乏生活を送ることになった。