荒廃する村

966 ~ 968

戦争は、現代も同じであるが、兵士が殺しあうだけでなく、放火や略奪(りゃくだつ)、非戦闘員の殺害など、乱暴狼藉(ろうぜき)を横行させて、民衆にも大きな被害をあたえた。先記のように、信玄は神社仏閣を焼きはらったと謙信から非難されたが、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)の第一次川中島の合戦では、上杉方が青柳(あおやぎ)(東筑摩郡坂北村)に放火し、武田方が麻績(おみ)(同郡麻績村)・荒砥(あらと)(上山田町)で放火している。弘治(こうじ)三年(一五五七)には、越後勢が埴科郡香坂(こうさか)を攻めて近辺をことごとく放火した。放火・略奪は敵方に大きな被害をあたえるため、どの大名も遠征先でおこなうのが通例であったが、信玄はそれを多用した大名であったかもしれない。永禄(えいろく)七年(一五六四)五月に上野(こうずけ)(群馬県)に出兵した信玄は、

いずれも敵地の麦作をことごとく刈り執り、和田・天引(あまびき)・高田・高山へ籠(こ)め置き、倉賀野(くらがの)・諏訪・安中(あんなか)の苗代を薙(な)ぎ払い、その上、武州本庄・久々□まで放火す。

と、「戦果」を重臣に書き送っている(『信史』⑫)。

 五月は麦の収穫期である。実った麦を刈りとって味方の城に入れ、また田植えに向けて苗代に育てていた稲の苗を薙ぎはらったというのである。百姓たちの苦労は無に帰した。米の端境期(はざかいき)で、籾(もみ)の蓄えが十分にあるわけではないから、新しく種籾を用意したり、苗を調達したりすることは非常に困難であっただろう。麦を奪われ、米の収穫が望めなければ、命をつなぐこともむずかしい。困窮した人びとのなかからは離村し流民(るみん)となるもの、他所へ移るものも出てくる。そうすると、田畠は荒れて、敵方の武士の年貢収入を減らすことにもなる。人的・経済的損害は、民衆と武士の両方に深く広く浸透する。放火も同様の影響をあたえる。敵を追いつめ、味方を有利にする。しかし、そうやって敵を屈服させたとき、みずからの乱暴狼藉の報いをみずからうけることになる。

 信玄は諏訪社の神長(じんちょう)にたいし、一〇〇年以前のように祭礼を復興したいが、「十五ヵ年已来兵戈(いらいへいか)止むを得ざるにより、土民百姓困窮」し、島津や高梨も従属しない、と述べている(『信史』⑫)。土民百姓の困窮はまさにみずからの戦争が引きおこした事態であった。一国平定のうえで祭祀(さいし)の再興を期していた信玄は、永禄八年にそれに着手した。前年に第五次の川中島出兵をした謙信を戦うことなく退けて、平定が一段落したと考えたのであろう。また、諏訪の神威を利用して、武士のみならず、村や町の住人と土地全体にたいする支配権を確立しようとしたのである。

 こうして、永禄八年から九年にかけて「諏方上下社祭祀再興次第」とよばれる文書(もんじょ)が作成され、現在一一点が残っている(『新編信濃史料叢書』③)。正月一日から年末までのあらゆる神事祭礼と、七年めごとの御柱などについて、それらの費用をどこの村、あるいはどこの神田が出すか、先例を「本帳」という昔の帳面によって調べ、さらに百姓に尋ねて確定していった。

 村や百姓にとって、それらの負担のなかには数十年や百年以上にもわたって断絶し、すでに記憶にないものも多かったから、新しい負担を強制されるのと同じに感じたものも少なくなかった。いや、当時の人びとにとっては新しい負担にちがいなかった。当然に反発は強く、「百姓等難渋(なんじゅう)」とか、「百姓等濫訴(らんそ)を企(くわだ)つ」とあるように、納入命令に応じなかったり、より積極的に訴訟をして賦課(ふか)は不当であると訴えるところもあった。したがって、完全にもとの水準まで負担を強制することができず、額を軽減するなどの措置も一部ではとられたが、神罰の脅(おど)しをかけて承伏させた場合も少なくなかった。

 そのようななかにあって、北信の村々の状況はやはり南のほうとは異なっていた。上社大宮の不開門(あかずのもん)の建立(こんりゅう)はもと埴科郡英多荘(あがたのしょう)(松代町)の役であったが、百姓らは造宮銭を納入しなかった。そこで百姓が招集されて、永禄九年だけの措置として、東条(ひがしじょう)郷は一五貫文、西条は五貫文、寺尾(向寺尾を除く)は七貫五〇〇文、牧島分は一貫五〇〇文を納入せよと命じられた。これらの郷村は「境目(さかいめ)ゆえ、耕作未熟」であるから、負担額を減らして一〇〇貫文司(貫文司のことは後述)につき五〇〇文ずつの計算で右の額を定めたという。そして、今後「純熟の時節」になったら、もとのように納めよと定められた。下社宝殿の造宮銭を負担していた屋代・清野・雨宮(あめのみや)・生仁(なまに)・倉科の五ヵ郷(更埴市)も、「近年戦国故、荒田数多(あまた)候条、右の造宮銭難渋」した。そこでやはり右の郷村と同じく負担を軽減し、「田畠の耦耕潤熟(ぐうこうじゅんじゅく)」となったらもとのように負担せよと命じられた。笠原郷(中野市)や芋川郷(三水村)は「敵国境、荒田の地」であるため、まったく役をかけられなかった。高井郡大境郷(飯山市)も「荒地故、退転」だったため、その分の負担を安曇郡の村にさせることにしている。