武田信玄の祭祀再興は完全には実現できなかった。ことに北信の村々では遅れたので、武田勝頼は天正(てんしょう)六年(一五七八)に徹底をはかることになった。それには、長篠(ながしの)の敗戦後の領国支配の立て直し策の一環という意味もあるが、他方では諏訪の神の神威・神徳への期待と依存の姿勢が強く感じられるのである。神の名による負担の強化・強制が、勝頼の北信支配にはたしてプラスになったのであろうか。
天正六年二月には、一五世紀末か一六世紀はじめの収納高が記された古帳を調べて、そのころの収納高と永禄九年・元亀(げんき)三年(一五七二)の収納高を記した「上諏訪造宮帳」「下諏訪春宮造宮帳」「下諏訪秋宮造宮帳」などが作成された。そして、それにもとづいた徴収がおこなわれ、その状況を記した収納帳(取帳)の類が翌年はじめにつくられている(『新編信濃史料叢書』②)。この一三年間にどのような変化があったかをみておこう。「上諏訪造宮帳」によると、前宮二の御柱は小市(芹田)・風間(大豆島)両郷の負担であったが、「近年怠転」のため、武田氏から俵子一二俵を支出することとした。しかし、天正七年二月の取帳によると、必要額にはほど遠いものの、両郷は一貫三〇〇文ずつを納入している。前宮四の御柱は表11のように市域の八ヵ郷の負担で、天文五年(一五三六)には合計で五四貫余を納入していたが、元亀三年には一〇貫文しか納めなかった。しかし、天正七年には二二貫余(このほかに手師(てし)・小祝(こほうり)の取り分二貫四〇〇文)まで回復している。それでも、南・北長池郷(古牧・朝陽)を除いて半分以下の納入額であり、南俣(みなみまた)郷(古牧)は納入しなかったようである。
先記英多荘の大宮不開門(あかずのもん)の負担は、もとは籾三三〇俵、銭に換算して六六貫文であった。元亀三年には二七貫五〇〇文が納入されているから、ほぼ永禄九年の決定どおりに納められたことになる。諏訪社の側では天正六年は以前とちがって満作だから、もとの額を納入するよう命じてほしいといっている。大宮の宝殿と瑞籬(みずがき)の御柱は、もと太田荘二四ヵ郷の棟別(むなべつ)銭で造営されていたが、天正六年まで越国境(えっこくざかい)という理由で徴収できていなかった。
下諏訪社春宮についてみると、三の御柱は小島田(おしまだ)(更北・松代町)・縄島(つなじま)(更北)・東千田(芹田)・西千田(同)・南千田(同)・徳長・堀(朝陽)の負担で、明応(めいおう)九年(一五〇〇)には二九四俵一斗三升、銭に換算して五八貫九三〇文を納入したが、元亀三年には籾四二俵一斗、銭にして八貫五〇〇文であった。それ以前、天文二十三年・永禄三年・永禄九年には一銭も納入されなかったという。瑞籬三間・外籬二〇問を負担する若槻荘(若槻付近)・志妻(しずま)(静間、飯山市)・伽佐(替佐(かえさ)、豊田村)は、もと一八貫五〇〇文を納入したが、近年は「敵境」のためにまったく納入されていなかった。外籬六間、三貫八〇〇文を負担する大塚(更北)は荒地のため、永禄九年は一貫文のみ納めるよう信玄が決定した。つぎの元亀三年春には「地下人侘言(じげにんわびごと)」すなわち百姓らが納入を免除するよう訴願したので、秋まで延期をしたという。一の大鳥居は原之郷・堤・中条・小布施半分(以上小布施町)・桜沢(中野市)の負担であった。元亀三年に代官の市川惣左衛門尉(じょう)は納めなかった。外籬・瑞籬を負担する村山郷(篠ノ井)・小島田・里布施(篠ノ井)も天正六年まで無沙汰をつづけていた。志妻・伽佐・奈良沢(飯山市)・上蔵(同)・蓮(はちす)(同)でも「境目故か、地下人難渋致し、相済まし申さず候」と、百姓らが徴収に応じようとしなかった。
天正六年二月の「下諏訪秋宮造宮帳」をみよう。四の御柱は高井郡の安田・底和田・野坂田・下木島(以上飯山市)・上木島(木島平村)で負担していたが、天文十一年を最後に「境目故、一銭成りとも取り申さず候」とあり、天正六年まで三六年間断絶していた。外籬一一間造宮の落合領広瀬荘七郷(芋井)は入山郷、上野(うわの)郷、広瀬郷、上屋(あげや)郷、北南郷、桜郷、田多良(たたら)(鑪)郷、古沢・新曾で永正(えいしょう)十五年(一五一八)までは五〇貫文を納入していたが、天文二十三年には「敵境」になったため二三貫文しか納入しなかった。さらに近年は「越国境と申し、荒所故に」納入がなかったという。瑞籬二間の中俣(なかまた)(柳原)も近年は納入していない。芋川(三水村)は「郷中敵地」とある。外籬二間の井上(須坂市)のうち石丸郷は近年納入せず、在所も不明となっていた。富部(とんべ)郷(川中島町)は辰野半兵衛が討ち死にしたため納入せず、布施田(ふせだ)郷(飯山市)は近年越国境により納入せず、とある。
信玄と勝頼の再興策の結果、太田荘や芋川・大境郷など上杉の勢力下にあったり、それとの境目の地を除いては、かなりの村でいくらかの納入を実現した。しかし、もとの額にははるかにおよばなかった。
天正六年になっても、荒地は広範囲に存在していた。家臣はたくさんの村を所領として宛行(あてが)われていても、じっさいの年貢収入は極端に少なかった。領主さえ年貢を満足に取れない村で、諏訪社がいかに神の名をふりかざしても、造宮銭を取ることは不可能である。村は疲弊(ひへい)し、人びとは困窮していた。村人の「難渋」は強制するものへの正当な抗議であった。勝頼は神の力に頼ろうとして、領民も家臣も敵にまわすことになった。