欠落と人返し

972 ~ 974

耕地の荒廃が広くおこり、容易に復興できなかったのは、耕作する人、荒れた土地を再開発する人がいなかったからである。家やわずかの財産を失い、丹精(たんせい)をこめた作物を奪われ、あるいは耕地を荒らされた人びとのなかには、困窮して村にとどまることができず、離村するものが少なくなかった。そうすると、その人の土地の多くは荒れたままに放置される。さきの島津領の荒廃ぶりをみると、一村のほとんどがいなくなったところもあったのではないかと思われる。もちろん、そうした事態は戦争によってのみ生じたわけではない。失火もあったし、台風や風水害、日照り、冷害にもしばしば襲われた。しかし、戦争の時代には、兵士として、また陣夫(じんぷ)(戦場への荷物運送に従事)や築城・道づくりなどの人夫として、村人がしばしば動員されたから、復旧作業や用水の確保のための水路の補修・開設などに人手を多く投入することが困難だったのである。自然災害が戦争とあいまって人びとの生活を圧迫した。一度荒れた耕地はなかなか再開発されなかった。

 じっさい、武田氏には離村・逃亡(欠落(かけおち))に関する文書が多くみられる。天文二十三年(一五五四)三月十二日、信玄は大日方入道父子にたいし、「其方領中の百姓、他所へ移り居るについては、成敗を加えしむべく候」との文書を出している(『信史』⑫)。大日方氏の所領内の百姓が何人も逃亡していたとみられ、春の農作業の始まる時期にあたり、なんとかそれに歯止めをかけようとして、大日方氏が信玄に願いでて発給してもらったのであろう。処罰するぞ、というきびしい文言(もんごん)を入れて、百姓の逃亡禁止令となっている。ちょうど上杉方と武田方の勢力の境目となっている地域であるから、他の領主の所領でも広くみられたであろう。

 弘治二年(一五五六)六月には大須賀久兵衛にたいし、「其方(そのほう)被官、五ヶ年の内、他所へ罷(まか)り出(い)で候人、前々の如く召し使うべし」と、五年以内に逃亡した被官の召し返し(連れもどすこと。人返し)を認める文書を出した。そして、召し返しにあたっては「当主人へ二返(にへん)相届け、なお難渋に至りては子細を言上(ごんじょう)すべし」と記している(同前)。このような被官の逃亡を示す史料も多い。被官とは、この場合大須賀の家臣(大名からみて陪臣(ばいしん))のことである。さきに軍役のところで述べたように、大名から所領(御恩)を宛行(あてが)われた家臣は、その所領高に応じて軍役を負担する。そのために日ごろから軍役数を上まわる数の被官をみずからのもとに編成しておく必要があった。その被官には、みすがらの所領の一部を宛行うのである。大須賀久兵衛は永禄五年(一五六二)三月にも、他所を徘徊(はいかい)している被官の召し返しについて、「当主人ならびに地頭へ再三相理(ことわ)り召し返すべし。もし難渋の人あらば早々注進に及ぶべし」との文書を得ている(同前)。久兵衛は被官を連れもどそうとしていたが、永禄五年になっても実現しなかったのである。逃亡した被官は他所で新しい主人に仕えて、本人はもちろん、その主人も、またその地の領主も連れもどしに抵抗しているために、召し返しが思うようにいかなかったのである。これも当時広くみられた状況である。そこで信玄は、二度あるいは三度主人・地頭側に申し入れて連れもどすこと、それでも抵抗するようなら、信玄に事情を上申せよ、信玄から命令を下す、というルールを定めたのである。

 永禄五年二月の大井左馬允(さまのじょう)入道あての文書によれば(同前)、同人の被官に「今度陣中より欠落(かけおち)の族(やから)、ならびに軍役退屈に付いて、私領を捨て分国を徘徊」しているものがいた。信玄はそれらに成敗を加えると述べているが、出陣先で逃亡したり、軍役を勤めることをきらって逃亡したものは犯罪者として処罰するということである。被官の逃亡は、主人である大名の家臣が軍役を勤めるのに支障をきたすと同時に、大名の軍隊の兵士不足にもつながり、また陣中からの逃亡者が多ければ軍隊の士気の低下をも招く重大事であったからである。

 被官の多くは村にいて日ごろは農業経営に従事していた。永禄六年十一月三日、信玄は原左京亮(さきょうのすけ)と伊藤右京亮にたいし、「被官・地下人(じげにん)・僧俗男女ともに相集め耕作せしむべし」との文書を出している(『信史』補遺上)。被官も一般の百姓も僧侶(そうりょ)も他所へ出ていってしまっているのである。被官も耕作者ととらえられている。天正十年八月、上杉景勝が葛山(かつらやま)衆に出した定書(さだめがき)に、「前々よりの被官・百姓等、今般誰やの人に契約致し候とも、きっと召し帰し、百姓役申し付くべく候」とあるのも同様である(『信史』⑮)。以前は葛山衆の配下にあった被官や百姓等のなかに、戦乱を機に新しい主人を求めて主従契約を結んだものがいたのである。それらを召し返して、もとのように耕作に従事させ、百姓としての役を勤めさせよといっている。村に住む人びとは、大名の家臣やその被官さえも農業経営者という顔をもっていた。

 戦争や自然災害によって荒れた地を復旧し、村を再興させたいとの願いは、村に残った人びとが強くもっていた。その地を支配する領主も同様であった。復旧には領主の役割も重要であった。原氏や伊藤氏と同様に、長沼の領主島津尾張守も信玄から「長沼の地下人ならびに先々より在島の族等ことごとく集め、長沼の地に居住あるべきものなり」との文書を出してもらって、百姓等の還住(げんじゅう)(もとの居住地にもどること)をはかった(『信史』⑫)。「在島」とあるから、このころ長沼の地は千曲川の氾濫(はんらん)で川のなかの島になっていたのであろう。先述のように天正六年に島津泰忠が所領の申告をしたときにも長沼島とある。このときには島の人びとは二九五俵一斗の雑穀を年貢として泰忠に納めているから、畠としての再開発がある程度はすすんでいたとみられる。

 葛山衆はもっと積極的に復興策を信玄に働きかけた。永禄十二年十一月、信玄は、地下人が還住したなら、三ヵ年普請役を免除するとの文書を葛山衆あてに出している(『信史』補遺上)。普請役は大名が徴収する人夫役で、重い負担であった。その免除を認めさせて還住をうながし、復旧・耕作を推進しようというのである。