幕張りの杉の伝承

975 ~ 978

村人は疲弊・困窮して離村・逃亡したが、そのほかに、軍隊が進軍してくるという情報を得ると、わずかな金銭や財産をもって、家族で山や大きな寺に逃げこんだり、軍勢の進路にあたらない村に逃げたりした。乱暴狼藉から一時的に身体や財産を守るためである。山には何日かにわたって滞在できるよう山小屋を作っておく場合もあったし、また、味方の城にこもる場合もあった。

 しかし、民衆は逃げてばかりいたわけではない。その一例として、中氷鉋(なかひがの)(更北稲里町)の青木氏の家に伝えられた伝承をあげよう。同家の周囲には今も杉の木が植えられているが、それには「幕張りの杉」のいわれがある。武田と上杉が川中島で対戦しようとしていた永禄四年、青木氏は両軍と交渉をして、幕をめぐらした内側には軍勢が立ち入らないことを約束させ、乱暴狼藉から自分の家や村を守ったという。その幕を結びつけたのが杉の木だったので、幕張りの杉というのだそうである。長い年月のあいたに倒れたりして、今は三代目という杉が戦国時代の村人の闘いと誇りとを伝えてくれている。


写真40 幕張りの杉
写真左の杉が3代目
(稲里町中氷鉋青木十郎宅内)


写真41 初代の幕張りの杉
昭和13年代
(青木十郎提供)


図6 青木家(堀の内)の図
明治末期のようすを描いたもの

 軍隊の大将と交渉して、ある区域内には軍勢が入れないようにしたり、乱暴狼藉を禁止したりしてもらうのは、戦国時代によくみられる。小市(安茂里)の称名寺(しょうみょうじ)には、永禄十一年十月に信玄が出した禁制(きんぜい)があるが、そこには「長沼番勢の衆ならびに越国出張の砌(みぎり)に参陣の衆、当寺家において乱妨狼藉ならびに陣取等、御禁制候ものなり」と記されている(『信史』⑬)。同じとき、松代町の証蓮寺も寺中と寺領で武田軍の乱暴狼藉を禁じた禁制を得ている(同前)。これらも、寺が信玄に願いでて発給してもらったもので、寺の境内やその寺領など、特定の場所を乱暴狼藉から守る効力があった。幕張りの杉もこれと同じ効力をもった。ただし、禁制を得たり、幕を張っただけでは無法状態の軍隊の乱暴を防ぐことは無理であった。それでも乱入しようとする軍勢に抵抗して、身をもって乱人を防がなければならなかった。命がけであった。

 禁制が残り、寺が残ったのには命がけの闘いがあった。幕張りの杉の場合にも、おそらくは青木氏だけでなく、村人の努力があったであろう。そのような方法で寺や村や家を守るには、大名の側に願いでてその許可を得たり、禁制を発給してもらわなければならない。そのためには金銭が必要である。いきなり大名に面会できるわけではないから、取り次ぎの家臣たちにも礼銭を出さなければならない。このため多額の費用も必要だった。しかし、そのような場所は人びとの避難所となり、命と財産を守ることができた。

 和歌山県立博物館所蔵の川中島合戦図屛風には、上杉の武将中条越前守の小荷駄隊を塩崎村の人びとが襲撃し、荷物を奪いとっている場面が描かれている。これが史実かどうかはわからないが、村人のなかには刀はもちろん鑓(やり)・弓矢をもっているものがいたから、積極的に武装集団を組織して小荷駄隊や敗走する軍勢を襲ったりすることもあったのであろう(口絵参照)。

 軍隊や支配者の側へ能動的に働きかけたり、自分たちの立場を主張した姿は、さきにみた諏訪社の祭祀再興の史料のなかにもうかがうことができる。たとえば、大塚郷(更北青木島町)では、もと三貫八〇〇文を下社に納めていたが、元亀三年春には納入をせず、村人は納入を免除するよう訴えた。そこで下社は秋まで納入を延期したところ、村人は上社に造宮銭を納めたという理由を述べて、けっきょく下社には何も納入しなかった。天正七年も、同様であった。

 また、永禄九年、坂木郷(坂城町)の村人は下社の神事と狩衣(かりぎぬ)の費用を出すよう命じられても応じなかった。そして、上社に造宮銭を納めているが、下社に負担したことはこれまでになかったと主張した。下社がもっていた古い文書に納入の先例があったため、けっきょく村人らの主張は退けられ、今後納入するよう命じられたが、永禄九年の分は免除されることになった。村人らの抵抗の成果である。「百姓等難渋」という文言がしばしばみられるが、その背後には造宮銭の賦課を不当とし、納入を拒否しようとする百姓らの意思が存在する。

 このような状況であったから、大名の側が一方的に村の負担額を決めて納入を命じても、実効は期待できない。勝頼は天正六年と思われる五月二十七日、井上荘(須坂市)にたいし、諏訪社造宮の先例を尋ねる必要があるので、「郷中乙名敷者(ごうちゅうのおとなしきもの)」五、六人が甲府に参上するよう命じている(『信史』⑭)。「乙名」とか「乙名敷者」とは、戦国時代の村に数人ずついて、村人の意思を取りまとめたり、他の村や領主・大名にたいして村・村人を代表する人のことである。ある一定の経験を積んだ年齢に達していて、土地も少なからずもっている人からなる、村の指導者たちである。大名はかれらの意見を聞き、かれらの同意を取りつけることなしに村に負担を押しつけることはできなかった。