郷と上司貫高

978 ~ 981

大名が家臣に所領を宛行(あてが)うさいに、所領の大きさを貫文(かんもん)という銭の量(貫高(かんだか))であらわすことが多かった。武田信玄は天文(てんぶん)二十二年(一五五三)六月、村上義清を裏切った大須賀久兵衛に三〇〇貫文の地を宛行うと約束して味方につけ、九月になって更級郡天摩(てんま)の内三〇〇貫文を宛行っている(『信史』⑪)。弘治(こうじ)三年(一五五七)二月には寝返ったばかりの山田左京亮(さきょうのすけ)に本領五〇〇貫文を安堵(あんど)し、新恩として大熊郷(中野市)七〇〇貫文を宛行った。永禄(えいろく)十年(一五六七)五月には関屋備後守ら三人に比賀野(ひがの)(氷鉋)郷(更北稲里町・川中島町)の内三〇〇貫文など計一〇五〇貫文を宛行っている(同⑬)。この比賀野のように「内」とある場合には、その郷村の内の一部であることを意味していて、同郷ではほかに海津在城衆の小幡(おばた)山城守が三〇貫文の所領を、中牧伊勢守宗貞が三〇貫文で定納二二貫五〇〇文の所領をもっていた(同⑮)。

 郷は、たとえば氷鉋郷が江戸時代には上・中・下の三ヵ村に分かれたように、いくつかの集落や江戸時代に村になるような共同体をいくつかふくんでいる、村より大きな単位である場合と、郷がそのまま江戸時代の村になるような大きさの場合もあって、統一されているわけではない。もちろん、江戸時代でも村の大きさは大小さまざまであった。豊臣秀吉のときに支配の単位を郷でなく村として、村の範囲を定める村切りをおこなったので、検地も村を単位におこなわれ村の石高(こくだか)(村高)が定められた。だから、村という統一の呼称もその範囲も政策で定められたものではあるが、中世の人びとがっくりあげた集落や生活の共同関係、用水や山野の利用など生産の共同関係をもとに定められたものである。

 すでに室町時代から戦国時代には、荘園や郷という古い支配の単位の下に村が成立してきていて、それが所領の単位となり、そのまま近世の村になっていく場合も少なくなかった。しかし、そうした単位にかならずしも「村」という呼称をつけるわけではなく、村とも郷ともつけない地名だけの表示も多くみられる。たとえば、天文二十一年十二月に高梨氏が上洛のため在京の夫役(ぶやく)をかけた単位は、下木島(飯山市)・金蔵(かなぐら)(山ノ内町)・柳沢(飯山市)・岩井(中野市)などと村・郷の呼称はついていないが、「留守中の夫」は「上条(山ノ内町)・上木島(木島平村)・前(間)山(中野市)三ヵ村」にかけるとあり(同⑪)、「村」という単位でそれらの地を認識していた。

 だが、郷という呼称は広く用いられていて、それを武田も継承した。先記のような本領五〇〇貫文、大熊郷七〇〇貫文という数字は、それらの地がまだ武田の支配下に入らない時点で出ている数字であるから、武田が検地をして定めたものではない。したがって、それは恩賞を求めた山田左京亮のほうから示した数字と考えられ、すでに存在したものである。いつ、だれがどのようにして定めたかは不明だが、おそらく一五世紀中に何貫文の郷、何貫文の村といったふうに、郷や村の貫高が定まっていたとみられる。それは基本的には田畠の面積がもとになって定まったであろうが、たとえば田一反当たり何文で計算したがとか、山野・河川等を利用するものから領主に納められる山手銭などの税も入っているのかとか、年貢額との関係といったことはわからない。

 武田はすでに現地のものが用いていた数字をまずはそのまま用いて、所領を宛行った。信玄は北信で検地をして、独自の新しい所領貫高を定めることはなかった。先記永禄八・九年の諏訪社の祭祀(さいし)再興で、英多荘(あがたのしょう)(松代町)の百姓が造宮銭の納入命令に応じなかったとき、信玄は減免措置として一〇〇貫文司に五〇〇文の割合で納めよと命じて、東条郷一五貫文、西条五貫文、寺尾七貫五〇〇文と納入額を定めた。そこから算出すると、東条は三〇〇〇貫文、西条一〇〇〇貫文、寺尾は一五〇〇貫文となる。この数字はさきの大熊郷七〇〇貫文というのと同性格のものであろう。

 この「貫文司」というのは、天正六年(一五七八)に島津泰忠が自己の所領の定納高を申告した(同⑭)ときに、

 本領   島津領内

上司百貫文  西尾張辺    右之定納百仁俵壱斗

のように記した、最上段の上司貫高のことではないかと思う。この高は永禄十一年に泰忠が信玄から宛行われた西尾張辺(古牧)の高と一致しているから、この一〇年のあいだに所領の貫高表示に使う数字は変化していないことがわかる。勝頼の代も上司貫高で所領高を表示しているのである。そして、信玄が暫定的に造宮銭を定めたさいにその算定基準として上司貫高を使っていることからみて、上司貫高は年貢以外の、武田氏が賦課する税や役の賦課基準としても使われたと考えられる。その点でも郷内の人びとにかかわりの深い数字であったが、これがじっさいの年貢や税・役の負担額とどのような関係があったかは不明である。