上司貫高の数字は、荒地が広がり、人が欠落(かけおち)して村が荒廃していく状況のなかでは、ますます実態から離れていくことになった。島津泰忠の場合、永禄十一年に本領四ヵ所一六八貫文を安堵され、新恩として五ヵ所七〇七貫文を宛行われたから、所領を格段に増やしたことになるが、実態は喜べるものではなかった。天正六年にいたってもその貫高は上司貫高として同人の所領高をあらわしていたが、本領と新恩地のうちの五ヵ所は「一切荒所」でまったく年貢が取れなかった。天正五年にじっさいに年貢として収納したのは西尾張辺で米一〇二俵一斗、長沼島で雑穀二九五俵一斗など、米と雑穀あわせて合計六〇二俵、銭に換算して一二〇貫四〇〇文でしかなかった。上司貫高の合計八七五貫文のわずか一四パーセント弱である。それも米と雑穀の区別なく、五俵で一貫文という換算をしていてである。これでは八七五貫文の所領といっても、実質的な意味はない。
このため、先記のように、上司貫高でなく定納高を基準に軍役をかける方式への転換を余儀なくされたのである。この定納高は島津や勝善寺などの場合、天正五年にじっさいに収納した高として、みずからが申告した高である。そして天正六年に上杉との同盟が成立し、飯山領などが手に入ると、飯山在城衆であった尾崎(おさき)孫十郎重元にたいし勝頼は当知行地を安堵し、「御検使」を派遣して「知行分定納の員数によって軍役を定め」るといっている(『信史』⑭)。天正六年八月二十日付の「尾崎孫十郎知行御改の事」と題した文書には、定納高として二ヵ所あわせて五七貫一〇〇文、籾で二八五俵一斗が記されている。上司貫高はなく、定納高のみである。この定納高も、島津と同じ天正六年であるから、尾崎重元の側から申告された収納高であり、武田の検地によるものではなかったと考えられる。一貫文は籾五俵(一石)という計算であるから島津の場合と同じである。
天正九年になると検地がおこなわれる。同年八月二十八日付で野呂瀬十郎兵衛尉(じょう)秀次・平林惣左衛門尉宗忠が「御検地之分小代官」あてに出した文書によれば(同⑮)、上司一〇〇貫文の八幡社領では前年の年貢納入高(「本」)が三〇貫文であったのにたいし、検地によって増分(ぞうぷん)が一二貫文余も出ている。これにかかわる検地帳などはないが、武田は永禄十一年九月十六日に佐久郡で上原筑前守の所領に検地をおこない帳面を作成しているので(『信史』⑬)、それが参考になる。そこでは一筆ごとに田畠の等級と年貢高、地字名、名請人(なうけにん)が記されている。耕地面積が記されていないのが特徴である。おそらくこのときの北信の検地でも同様な方法がとられたと推定される。一筆ごとに検地奉行が百姓側とのあいだで年貢高を決定していき、その集計から「本」を引いた高が増分となる。八幡社領の増分は三〇貫文の四〇パーセントもあり、検地の効力が大きかったことがわかる。
天正九年十月十九日付で検地奉行から夜交左近丞(よませさこんのじょう)の代官にあてた文書によれば、左近丞の所領、新野(しんの)の内(中野市)・夜交郷・山脇(山ノ内町)の三ヵ所からあわせて三四九俵三合の検地増分が出され、ほかにこの年の開発地として把握された分か六九俵一斗九升四合もあった。それらは左近丞から没収された。同人は天正八年閏(うるう)三月に、岩船郷(中野市)七〇貫文で当納三〇俵の所を上表して、夜交の内山脇分二〇貫文、当所務二八俵の所を得ていたが、天正九年の検地では山脇の増分は当所務の二・五倍近い六八俵余もあった。
「当納」「当所務」は、じっさいに百姓から領主に納入された高で、八幡社領の「本」や島津領の「定納」にあたる。天正八年十二月、勝頼は大滝土佐守に、清白寺四九貫余などを上表したかわりとして、戸狩郷の内六〇七俵のところを宛行い、そのほかに増分があれば飯山の蔵方に納めよといっている。この六〇七俵も同じである。そこでも検地が予定されていて、検地がおこなわれればかならず増分が出ることは予想されているので、増分の蔵への納入が指示されたのである。「本」とか「当所務」分は家臣に認めるが、検地増分は没収して直轄領とし、城の蔵に年貢を収納する方針であった。
こうしてまず、天正六年以後、定納高とか所務高が上司貫高にかわって所領高をあらわしたり、軍役の基準として用いられるようになった。そのうえで検地をおこない、家臣の申告した所務高を上まわる大幅な増分を打ちだした。その増分は、そのまま家臣に加増として宛行われる場合もあったが、多くは没収されて直轄領となった。いっぽう、村の側からみると、それまで家臣や寺社に納めていた年貢に検地増分を加えた高が、新しい年貢高となり、その両方を納入しなければならなくなった。この高は、検地で武田氏が定めた、今後百姓が納めるべき年貢高としての「定納高」である。北条氏の場合も、検地によってみずからが定め、百姓に納入を強制する高を「定納高」としている。これが戦国大名支配下のほんらいの意味での定納高というべきもので、先記の島津らがじっさいに収納していた高として申告された「本」「当所務」の高は「所務高」としてこれを区別しよう。すなわち、検地によって定まった定納高が新しい村高となったのである。検地実施の村はまだ限られたものであったが、実態から大きく乖離(かいり)した上司貫高の廃棄と、検地による新しい貫高(定納高)の設定、その上に立つ新しい軍役の体系、新しい年貢納入高の決定というレールが敷かれつつあった。
しかし、所務高を上まわる増分のきびしい没収が家臣たちの反発を招くことは必至であり、大幅な増分の打ち出しは年貢の大幅増徴を意味したから、百姓の抵抗も大きかった。伊那郡片蔵(かたくら)郷(上伊那郡高遠町)の百姓らは、天正六年の検地で増分が打ちだされ年貢増徴となったことに反発して逐電(ちくでん)(逃亡)した。このため勝頼は、その増分全部を免除して百姓らを還住(げんじゅう)させる対策をとらなければならなかった(同⑮)。北信でも同様な百姓の抵抗があったのであろう。夜交郷の増分二四二俵一斗六升の内五三俵八升六合が年貢免除とされている。こうして武田氏は家臣と百姓の反発をかかえこんで、天正十年春の滅亡のときを迎えることになった。