太閤検地帳の石高

984 ~ 987

文禄三年(一五九四)の定納高の把握で、上杉領国の家臣の所領高、百姓の負担する年貢高等は、公定の京枡(きょうます)による石高表示へと転換した。しかし、その石高はあくまで定納高であって、その点では武田支配末期の高の性格と同質のものであった。ところが、翌文禄四年、秀吉の五奉行の一人増田(ました)長盛の指揮により、太閤検地方式による検地がおこなわれると、異質の石高が登場する。北信に唯一現存している同年九月二十九日付の「信濃国更科郡川中嶋内[中氷鉋村/下氷鉋村]御検地帳」によって、まずこの検地の特徴をみておこう。


写真41 文禄4年(1595)中氷鉋村下氷鉋村御検地帳 (青木十郎蔵)

 帳面には、はじめに下氷鉋村の田畠(はた)を九六筆にわたって記し、つぎに中氷鉋村の田畠一〇三筆を、そのつぎに居屋敷(いやしき)を中氷鉋村二七筆、下氷鉋村二三筆の順に計五〇筆記している。そのあとに両村あわせた田畠の等級別の集計、居屋敷の集計がある(表12)。両村ともに上田(じょうでん)はないが、田が四〇町八反余にたいし、畠が九町二反余で、田が畠の四倍強と田の多い村であった。しかし、そのうちで中田(ちゅうでん)が一〇町余にすぎないのにたいし、下田(げでん)二〇町余、下々田(げげでん)一〇町弱と後者の比率が高い。畠でも上畠(じょうばた)・中畠をあわせた面積より下畠のほうが多い。


表12 中・下氷鉋村検地帳の両村合計面積・石高

 太閤検地では等級別の面積に反当たりの石盛(こくもり)をかけて分米(ぶまい)を出し、それを合計して村の石高(村高)を決定した。通常は上田一石五斗、上畠一石二斗を基準として等級が下がるごとに二斗下がりに石盛を定めたが、氷鉋の場合は中田一石一斗、上畠一石であるから、標準より二斗ずつ少ない石盛としている。すなわち中田には標準の下田の石盛が、上畠には標準の中畠の石盛が適用されている。秀吉の直臣がおこなった検地であるが、統一基準を機械的に適用するのではなく、現地にある程度配慮した数値といえよう。

 検地では田畠に等級をつけて帳面に登録していくが、奉行が毎年の作柄を把握しているわけではないから、奉行は村人の側に等級や作柄を尋ねながら決定していくことになる。もちろん、村人の主張がそのまま通るわけではなく、大名と豊臣政権との政治的な関係と奉行の方針・裁量、地域や村の住人と奉行との力関係などに左右される度合いも高かった。したがって、検地帳に上田がないからといって、じっさいに中・下氷鉋に上級の田がなかったとはいえない。等級が低いほうが石高は少なく、村人には有利となる。じっさいにどのようにして等級や石盛が定まったかはわからないが、田一反当たりの石盛は、それまで武田や上杉が把握した定納高とも、村が領主(家臣)にじっさいに納めていた年貢高とも直接かかわりのない、秀吉の定めた統一の石盛をもとにした数値であった。まして、米のとれない屋敷や上畠に下田より高い石盛を、下畠にも下々田と同じ石盛を適用して石高を定めていくというのは村人にとって未経験であり、実感のない石高が登場した。

 一般に太間検地は、六尺三寸を一間とする検地竿(ざお)で田畠一枚ずつを丈量したと考えられている。この検地帳にも縦横の間数が書いてあるので、一見するとそのような印象をうける。しかしよくみると、とてもそのようにはいえないことに気づく。たとえば、下氷鉋村には一筆が六〇間×六五間で一町三反の下々田が、中氷鉋村には八〇間×九〇間で二町四反の下々田、九〇間×一〇〇間で三町の下田などがある。たとえ平野部でも、一枚でこのように広い田は当時はありえないことである。数枚をまとめて出した数字であり、間数もかなり大ざっぱである。正確な計測などしていないのである。

 石盛が実体からずれていて、面積も正確に丈量されないで村の石高が決定された。それでも、この石高は豊臣政権中枢の奉行によって太閤検地の原則にのっとって定まった石高なのである。この村高を合計して上杉領国の石高が定まり、それが、上杉が秀吉にたいして軍役を負担するときの軍役高となる。この検地の目的の第一は上杉氏の領知高・軍役高を決定することにあった。畿内・近国では、また近世には多くの地域で太閤検地方式で定まった村高に年貢率を乗じて年貢高を決定する方式がとられたが、上杉がじっさいに文禄四年検地の村高をもとに年貢を収取したかは疑問である。少なくともそれには不都合があったにちがいなく、翌年慶長(けいちょう)元年(一五九六)からはあらためて自前の検地をおこなわなければならなかったのである。