検地帳からみた下・中氷鉋村

987 ~ 992

検地帳の一筆ごとの面積と分米を村別に集計すると、表13のようである。下氷鉋村の田は一二町九反四畝余、その石高は一一五石三斗九升であるのにたいし、中氷鉋村の田は二七町九反三畝弱、二四四石七斗六升弱で、中氷鉋村のほうが二倍強となっている。畠については、下氷鉋村が三町二反弱、二五石三斗余にたいし、中氷鉋村は六町余で、四一石五斗余であるから、やはり後者が二倍近い。屋敷もほぼ同様で、全体として中氷鉋村が下氷鉋村の約二倍の耕地・屋敷面積と石高となっていて、前者が二九五石余にたいし、後者が一四五石余の村高である。


表13 中・下氷鉋村検地帳の田・畠・居屋敷の面積と石高

 なお、この村高は江戸時代には受けつがれなかった。江戸時代の村高を慶長七年(一六〇二)の「川中島四郡検地打立之帳」(『信史』⑲)でみると、中氷鉋村が七七〇石余、下氷鉋村が六七二石余であるから、両村とも村高はいちじるしく増加している反面、両村間の差は縮小している。ちなみに同帳の上氷鉋村の高は九〇〇石余である。

 さて、下氷鉋村の田畠の名請人(なうけにん)二一人の肩には一筆ごとにすべて小幡(おばた)分、寺尾分、海津(かいず)分のいずれかが付されているのが、中氷鉋村と異なる特徴である。小幡分は小幡下野守(もと山城守)、寺尾分は寺尾百龍丸(松代町寺尾が名字の地)の所領であることを示す。海津分は海津城の蔵に年貢を納入する上杉氏直轄領であろう。各名請人は小幡分か寺尾分か海津分のいずれかひとつのみに属していて、小幡分は八人の名請人で石高合計は四六石五斗一升九合である。このほかに小幡分の居屋敷が五斗七升二合ある。同人は天正十年(一五八二)六月に景勝から日賀野(ひがの)三〇貫文を安堵されているので、それに対応するのがこの所領であろうが、ほかに上氷鉋村に同人分があった可能性もあるので、これで氷鉋三〇貫文のすべてかはわからない。

 寺尾百龍丸が氷鉋に所領をもっていたことは、この検地帳によってはじめて知られる。同人分の田畠の名請人は一一人、石高合計は八〇石四斗三升四合である。このほかに居屋敷が一三筆、二石七升ある。海津分は、二人で一三石七斗七升五合である。下氷鉋村でもっとも多くの石高を名請けしているのは、寺尾分の新助(新介もふくむ)で三四石八斗余である。しかし、同人の居屋敷は検地帳に登録されていないので、上氷鉋村の住民であったのか、それとも居屋敷が年貢免除であったために登録されなかったのかは不明である。つぎに多いのは寺尾分の市介の三三石八斗余で、このうちに居屋敷三畝六歩・三斗二升をふくむ。同人は下氷鉋村の住人である。この二人で村高の半分近くを名請けしていることになる。逆に、住人で田畠の名請高がもっとも少ないのは、畠一畝二歩、一斗六合の与十郎、ついで畠一畝一二歩、一斗四升二合の二介である。かれらは他村に出作(でさく)していた可能性もあるが、村人のなかの階層差が大きいことは明らかである。


表14 下氷鉋村の名請人階層表

 中氷鉋村には小幡分・寺尾分・海津分はなく、須田分が一筆三石九斗ある。そのほかに名請人の肩に「いせりやう」と記すもの一筆、「いせ分」と記すもの四筆があり、あわせて六石三斗六合となる。これは現在も中氷鉋にある伊勢社の神領である。中世に氷鉋郷のあたりは布施御厨(みくりや)という伊勢国の伊勢神宮の荘園であったために、郷内に伊勢神宮が勧請(かんじょう)されていたのである。五筆のうちの二筆一石一斗を名請けしている宮内左衛門尉は、その名からみて、同社の祭祀(さいし)にかかわっていた人物であろう。同人は中氷鉋村で七石八斗余を名請けする中堅層であるが、居屋敷は登録されていない。また、これとは別に中田一町、一一石と畠一石七斗を名請けする宮内右衛門尉がいるが、同人も居屋敷の登録はない。


写真43 中氷鉋の伊勢社

 下氷鉋村には伊勢社に年貢を納入する名請人はいないが、田畠の所在地名を記す場所に「いせりやう」、「いせ分」と記すものが各一筆あり、前者は下畠で二斗、後者は中田で七斗三升三合で、いずれも寺尾分となっている。同様に「いセ田」と記す下々田一筆、一石八斗が中氷鉋村にある。これらの三筆分もかつては伊勢社領だったことがあったのだが、前二者は寺尾氏の所領に、後者は直轄領になったのである。「いセ田」の近くにある「宮田」の下田四石八斗もかつて同社領であったかもしれない。中氷鉋村では以上の須田分・伊勢分あわせて一〇石余を除いた分か直轄領とみられる。以上の領主と百姓の関係を図にすると、図7のようである。


図7 下氷鉋村・中氷鉋村の領主・百姓関係

 中氷鉋村で名請高がもっとも多いのは藤七郎で三〇石六斗余である。同人は中氷鉋村の筆頭に出てきて、須田分一筆を名請けしているので、海津城主須田満親との結びつきが強い人物かもしれない。中氷鉋村に居屋敷を名請けしていない。いっぽう、下氷鉋村の筆頭には小幡分の藤七が出てきて、八石三斗余の田畠と二畝で二斗の居屋敷を名請けしている。藤七郎と藤七だが、あるいは同一人物の可能性も否定できない。つぎに多いのは一筆で下田三町、二七石を名請けする左介で、居屋敷の名請けはない。つぎは田畠二五石八斗余と居屋敷一反二畝・一石二斗の新左衛門尉、中田一筆二町一反余で二三石一斗の清右衛門(居屋敷なし)とつづく。以上の四人に二〇石以上の二人を加えた六人で村高の半分をややこえる石高となる。この村でも階層差は大きく、住人のなかで田畠の名請高がもっとも少ないのは、田二四歩、八升八合の助右衛門尉、ついで田一畝二歩、一斗一升七合の十介とつづく(表15参照)。


表15 中氷鉋村の名請人階層表

 居屋敷はあわせて五〇筆ある。村別に記していないとみる考え方もあるが、中氷鉋村成心からはじまる二七筆が中氷鉋村の分、下氷鉋寺尾分「たうくう」からはじまる二三筆が下氷鉋村の分と考えられる。そうみると、名請人のいない分が下氷鉋村で四筆とも「明屋(あきや)」に統一され、中氷鉋村では一三筆とも「失人(うせにん)」に統一されて記されていることになり、「明屋」と「失人」とは単なる表記上の差異であって、実体に大きなちがいはないとみてよいであろう。中氷鉋村で二七筆中一三筆とほぼ半数に、またあわせて五〇筆中一七筆、すなわち三分の一もの居屋敷に住人がいないというのはやはり特筆すべきことであろう。前項で述べた村・耕地の荒廃、欠落(かけおち)・流浪者の増大と対応する深刻な事態といえよう。

 下氷鉋村で田畠と居屋敷を名請けしているのは九人、それ以外に居屋敷のみを名請けするものが九人(ほかに不明一人)いる。中氷鉋村に居屋敷があって出作しているものは三人である。中氷鉋村で田畠と居屋敷を名請けしているのは、二筆を名請けする与三(よぞう)を与三左衛門尉(よさざえもんのじょう)と同一人物とみれば一三人で、居屋敷のみのものはだれもいない。下氷鉋村に居屋敷があって出作しているものは、一ノ介を下氷鉋の市介と、藤七郎を藤七と同一人とみた場合には三人である。出作が確認されるものの数は少ないが、田畠を多く名請けしていても居屋敷を名請けしていないものもいるので、上氷鉋村や周辺の村からの出作が多かったかもしれない。

 居屋敷の面積は一反以上が二筆、五畝以上が二筆、三畝以上が一一筆しかなく、一畝未満が一〇筆もある。明屋・失人の居屋敷の面積は二畝未満が一一筆、そのうち一畝未満が六筆であるから、面積が小さいものの割合が大きいとはいえるが、三畝から五畝が五人もいてかならずしも居屋敷の面積と比例しない。また、一二歩ともっとも面積の小さい下氷鉋の五郎左衛門尉は、田を中心に田畠あわせて七石四斗余を名請けしているから、居屋敷の大きさと田畠の名請高もかならずしも比例しない。

 さて、この検地帳に名が載った人びとのなかには、慶長三年(一五九八)春に会津へ移っていったものも少なからずいたことであろう。村の再興にはなお困難な道程を越えなければならなかった。