郷村の代官

992 ~ 997

定納高や石高にもとづいて百姓は年貢や山手銭などの税を納入した。そうした年貢等は貫高で表示されているから銭で、石高で表示されているから米で納めなければならなかったわけではない。じっさいには米一石で一貫文のように換算値が定められていて、米や麦、大豆などの雑穀、麻布や絹織物、漆(うるし)、銭など種々のもので納められた。村人が一人ずつ随時領主のもとに納めにいったのではなく、村や郷単位で取りまとめて納入した。村の荒廃がすすみ、村人の欠落、自然災害や戦乱の被害も少なくなかったから、その状況に応じて村と領主のあいだでは年貢額や納入時期をめぐって交渉がおこなわれ、対立もあった。

 荒地の開発や欠落した村人の還住(げんじゅう)をすすめたい百姓の側が、年貢等の負担をできるだけ減らしたいと考えるのは当然であったし、他方で領主のほうも年貢等をできるだけ多く取らなければ、際限のない軍役の負担をつづけることは困難であった。百姓と領主のあいだにはきびしい緊張と対立の関係がはらまれていたのである。百姓の側で領主と年貢額等について交渉したり、村単位に年貢等を集めたりしたのは、先記のような乙名(おとな)たちであったとみられる。他方、領主の側では、百姓が納入するのをただ待っているだけでは年貢等を満足に収納することはできなかった。

 先記のように、天正九年の武田氏の検地で、夜交(よませ)氏の所領で出た増分の処置が同氏の代官あてに指示されていたことを考えると、少なくとも夜交氏のように数ヵ所に所領をもつ領主たちの場合、現地の有力者を代官に任命して所領支配をしていたと考えられる。しかし、それを直接示す史料はほとんどない。そこで注目されるのが、先述のように勝頼が諏訪社再興策をとったときに天正六年から七年にかけて作成された造宮帳である。『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』にも、郷村ごとに高梨・島津ら国人の代官が記されているが、右の造宮帳にも代官名が記されていて、かれらは現地の郷村の側の徴収・納入の責任者と考えられる。

 まず、上社に負担義務のある郷村について表16をみよう。天正六年の帳には過去の代官名が、天正七年の帳には同年当時の代官名が記されている。このあいだに代官の顔ぶれがかなり変わっていることがわかる。最初の北高田郷(古牧)から南高田郷(同)までの八ヵ郷は市域にあった郷で、前宮四の御柱を負担した。天文五年(一五三六)と天正七年の両方にみえるのは関内蔵助(くらのすけ)と渡辺新左衛門尉・彦右衛門尉であるが、関は南長池郷(古牧)に新たに進出し、後者はそこを失っている。西尾張部郷(同)には島津泰忠の所領があり、南高田郷は元亀元年(一五七〇)関大蔵左衛門尉が五〇〇貫文を本領として安堵されているが(『信史』⑬)、かれら給人は代官となっていない。


表16 上諏訪社の造宮を負坦する郷の代官

 関内蔵助は、南高田を本領といっている関大蔵左衛門尉の同族であろう。関氏には元亀元年に金箱(古里)の信叟(しんそう)寺に法衣を寄進した関源右衛門丞がおり(『信史』⑬)、同人は天正九年に伊勢御師から長沼で御祓(はらい)くばりをうけた関源右衛門と同一人であろう。長沼には同人の同名(どうみょう)衆が多くいたという。天正八年九月には東和田村(古牧)・下越(しもごい)村(吉田)・中越村(同)・赤沼村(長沼)・神代(かじろ)村(豊野町)・大島(おおじま)村(小布施町)の土地を少しずつ神社に寄進している関越前守繁国がいる。また、上杉氏のもとで長沼島津氏の同心となっている関右馬助・同下野守(しもつけのかみ)もいる。内蔵助はこれらの同族であろうが、武田氏や上杉氏の給人ではなく、給人の被官か、もしくは被官にもならない、経済的に富裕な人であったのではなかろうか。

 大塚郷(更北青木島町)は第二回の川中島の合戦のときに信玄が陣をとった「大塚」の地と考えられており、その陣所といわれている館跡は、町田氏の居館だったという伝承がある。大塚郷の代官の二人の町田氏はこれとかかわりがあると考えられる。町田氏のなかには武田や真田・上杉の家臣となったものがいるが、それらのなかに五郎兵衛・新介の名は見いだせない。

 つぎに下社の天正七年の帳面にみえる代官名をみよう(表17)。富部(とんべ)(川中島町)の代官町田新助は大塚郷の代官の町田新介と同一人物であろう。富部は大塚に近接した地である。若槻荘に若槻但馬(たじま)の名がある。伊勢の道者の御祓くばり日記によれば、長沼に若槻丹波守がいて、同人はもと東条(ひがしじょう)と名乗っていたという。若槻荘東条を名字とした家であったのだろう。但馬はこの一族であろうか。表16には桜沢郷(中野市)の代官として若槻三郎左衛門・いなつみ新左衛門の名がみえる。この若槻氏も同族であろう。「いなつみ」は若槻荘内の地名稲積(稲住とも)を名字とするものであろう。しかし、若槻(東条)・稲積の名は「定納員数目録」にみえないから、若槻丹波守らは大名の給人でなく、給人の被官クラスだったのではないだろうか。かれらは庶流の出とみられる。


表17 天正七年正月の「下宮春宮」帳にみえる代官

 氷鉋郷の代官村松氏も、同郷の領主ではない。村松の名は、桑井大明神(松代町豊栄)の棟札(むなふだ)にみえる。文亀(ぶんき)二年(一五〇二)三月の棟札には「本願之施主 村松土佐守幸貞」の名があり(『信史』⑩)、天正四年二月の棟札には「大旦那村松土佐守、村松善右衛門」の名がみえる(同⑭)。神社の再建の施主・大旦那となっているから有力者とみられる。氷鉋郷の代官はかれらの同族であろうが、名前からみて別人である。「定納員数目録」には村松源四郎・彦右衛門の名があるが、信州出身か不明である。同目録には下村喜助・松林一郎左衛門など表17の代官と同姓のものはみえるが、同族の可能性はあっても、同じ家の人とは考えられない。他方、増沢・賀藤・吉谷・左々木・坂井氏などは、同姓がみえないか、同族とみなしうるものがいない。

 こうした代官の大部分は大名の給人層より下の階層か、あるいは庶流として給人層の被官に編成された人びとだったのではないだろうか。町田や関・村松・若槻・渡辺などの苗字(みょうじ)(名字・姓)は現在でもそれぞれの郷のあたりに見いだすことができるから、代官の多くはその郷か近隣に住んでいる、在地性の強い有力者が選ばれたように思われる。また、代官のなかには苗字を名乗らず、検地帳の百姓名と同じような名のものも多くいる。かれらはより在地性の強いものであろう。

 以上から、代官の多くは大名の給人でなく、それぞれの郷村かその近隣に住んで在地性が強く、一族に大名の給人がいるなど有力者であったとみてよいであろう。かれらのなかには給人の被官になっているものもいたであろう。このような諏訪社の把握した代官が、給人の代官と同じであったかどうかは確認できない。しかし、きわめて短期日のうちに諏訪社が給人所領で独自の代官を定めることができたかは疑問である。もし給人の代官と別の代官を独自に定めるとすれば、当然に給人の代官との摩擦は避けられないだろうからである。