中・下氷鉋村検地帳の名請人には苗字を名乗るものはいないが、かれらのなかに苗字をもつものがいなかったのではない。とくに多くの土地を名請けしているものは苗字をもっていたにちがいないが、検地役人の側がそれを記さない方針をとったのであろう。検地帳に名請けすることは、年貢を納入する百姓身分とみなされることを意味する。しかし、この当時はまだ侍身分(兵)と百姓身分(農)とは分離されていなかった。これを兵農未分離といい、両方の性格をあわせもつ人が少なくなかったのである。先記の苗字をもつ代官などはまさにそうした人びとであったと考えられる。村にはそうした人びとと給人にも被官にもならない農民とが混住していた。そこに、秀吉は大名の転封(てんぽう)などをおこなって、兵農分離を強行したのである。
秀吉は慶長三年(一五九八)の上杉景勝の会津への国替えにさいし、つぎのような命令を発している(『信史』⑱)。
今度会津への国替えについて、其方(そのほう)家中、侍のことは申すに及ばず、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)にいたるまで、奉公人たるもの一人も残らず召し連れるべく候。自然、罷(まか)り越さざる族(やから)これあるにおいては、速かに成敗を加えらるべく候。ただし、当時(現在)田畠を相抱え、年貢沙汰(さた)せしめ、検地帳面の百姓に相究まるものは、いっさい召し連れまじく候なり。
すべての侍と中間・小者までのすべての武家奉公人は会津へ連れていくこと、それらのうちで会津へ行かないものは成敗すること、逆に田畠をもち、年貢を納めて検地帳に百姓として登録されているものは連れていってはならないこと、の三点が指示されている。侍(兵)は大名とともに移動するもの、百姓(農)は村につくものという、身分による役割と性格のちがいをはっきりと示し、国替えによって二つの身分を強制的に分離しようとしているのである。
右の秀吉の指示では、検地帳に名請人として登録されているものは百姓身分であるから、連れていってはならないとある。ところが、越後で上杉が去ったのちの慶長(けいちょう)三年に、新領主として入部した堀氏が検地をおこなっていて、その検地帳には名請人のところに「会津へ参候(まいりそうろう)給人」とか「あいつ(会津)へ給人小者」といった記載がよくみられるのである。魚沼郡雲洞(うんとう)村(新潟県南魚沼郡塩沢町)では、そうした給人の数が二六人にのぼり、その結果耕地の約八割が荒地となっていた。三島(さんとう)郡歳友(としとも)村(同三島郡寺泊町)では検地帳に登録された居屋敷が一二筆あるが、そのうちのじつに一〇筆に「あいつ行」の注記があり明屋敷となっている(『新潟県史』通史編2)。「田畠を相抱え」ていた人びと、したがってこれ以前の検地で名請人となっていた人びとのなかからかなりの数の人びとが会津へ移っているのである。信濃でも同様だったであろう。それはかれらが侍であったり、中間・小者であったからにほかならない。すなわち、かれらは侍身分の側に属すものでありながら、他面では田畠の耕作者もしくは農業経営者であるという二面性をもっていたのである。
「田畠を抱える」とは、その土地は自分のものだと主張できる権利をもっている状態のことをいう。自分と家族だけで耕作している場合もあれば、自分たちは耕さないが下人を使ったり人を雇ったりしてみずからが経営している場合、人に耕作させて加地子(かじし)という小作料をとっている場合がある。それらの土地からは年貢を納めなければならない。しかし、その場合でも給人になって自分が抱えている土地を給与されれば、年貢は自分のものにして、納入義務はなくなる。このような場合、検地帳には「手作(てづくり)」と記されることが多い。これと異なり、給地を他のところであたえられて、自分が抱えている土地からは大名もしくは他の給人に年貢を納める義務をもっている場合もある。この場合には給人であり、かつ百姓であるという二面性がはっきりとしている。いずれの場合も検地帳には名請人として登録される。したがって、秀吉の指示はかならずしも村や給人の実態に合っているとはいえないのである。
さきに諏訪社の造宮帳で郷村の代官についてみたが、西条(松代町)と寺尾(松代町・篠ノ井)では代官は記されず、そのかわりに「澄手」なるものが登場している。西条の「澄手」は西条治部少輔(じぶしょうゆう)、寺尾は寺尾刑部助(ぎょうぶのすけ)である(表16)。前者は西条の領主にまちがいなく、後者も寺尾の領主であろう。かれらは名字の地に依然として館を構えていて、その村についてはみずからの責任で造宮銭を納入したのであろう。定納員数目録では西条喝食丸(かつじきまる)が八七八石余、寺尾百龍丸が八二八石余の所領をもっているから有力な給人である。
このような給人が村のなかでどのような役割を果たしていたかを考えるとき興味深いのは、永禄(えいろく)十二年(一五六九)十一月におこなわれた英田(あがた)荘西条大国明神社(松代町西条)の造営の棟札である(『信史』⑬)。そこには大檀那(おおだんな)として、西条美作守(みまさかのかみ)祐意、子息の弥三郎昌直、息女の御千の名がみえる。西条の領主として造営を主導し、多額の出費もしたのである。かれらについで名を記す大夫丸禰宜(ねぎ)はこの神社の神職であるが、滝沢新九郎という俗名も記していて、おそらく西条氏の支配を宗教面で支えるとともに、被官として戦争など俗的活動もしたのであろう。西条氏の長い年月にわたる領主としての権力と権威、それと不可分の寺社の造営、仏神事の主導とそれを通じての住人の精神的支配は、なお揺らいではいないようにもみえる。しかし、この棟札の真ん中には「一村の道俗の奉加をもって造畢(つくりおわんぬ)」と記されていて、西条の住人が出家も俗人もふくめて寄付をし、造営に参加して息災延命や諸願成就を祈ったのであった。一村の住人が奉加等を通じて、みずからの神祭りに主体的に参加しているのであり、それが精神的自立や主体的な村政の運営の基盤にもなっている点を軽視してはならない。
天正五年、一向宗の門徒たちは一〇〇〇俵もの兵糧米を、織田信長と戦う石山本願寺(大阪市)に送った(『信史』⑭)。その米は長野市域にあった康楽寺・浄興寺・勝善寺・正覚寺・西厳(さいごん)寺・西光寺・称名(しょうみょう)寺・唯念寺・善教寺・専福寺など、北信を中心とした寺に集められて送られたが、給人やその被官ばかりでなく、百姓や商人・職人などさまざまな身分階層の人びとの志であっただろう。有力給人の菩提寺の多くは給人とともに会津移封にしたがって移転したが、それ以外の村人たちに多くを支えられていた寺は、北信の地にとどまったのであろう。
夜交(よませ)郷(山ノ内町)の人びとは山手銭を領主に納めていたことがわかるが(『信史』⑮)、それは領主が山の支配権をもっていたからである。しかし他方で、山の境界や山の利用権が問題になるとき、村人自身が先例にもとづいて権利を主張しあうのである。文禄(ぶんろく)元年(一五九二)山布施郷(篠ノ井)と笹平(七二会)のあいだで山の争いがおこると、海津城主のもとに提訴され決着した。それをうけて、山布施郷の村人を代表して大炊助(おおいのすけ)・新六ら三人が、笹平町衆中あてに笹平に渡す山の地名を書き、今後は境界を守ることを誓った文書を提出している(『信史』⑰)。村が山の実質的な利用権をもっていて、境界などはそれにもとづいて決定されるのである。そのために、村の意思と誓約を記した文書が紛争の終結に必要とされるのである。
以上のように、村と村人の生活・生産は給人やその被官など侍身分の人びとと深いかかわりがある反面、かれらがいなくては成りたたないというわけでもなかった。しかし、戦国大名の家臣団の大部分、おそらく九割をくだらない数が、給人であれ、また兵農未分離の状態の人であれ、村のなかに屋敷をもち、村のなかで大きな力をもっていたのであった。だが、慶長三年春、突然にかれらはその村から引き離されることになった。上杉は、秀吉の命令を遵守(じゅんしゅ)して、給人はもちろんのこと、中間・小者にいたるまでのすべての奉公人を徹底的に会津へ移す方針をとった。これにより、長い歴史を刻んで抱えもっていた田畠や村との結びつきが絶ちきられ、兵農分離が強行された。現小川村の大日方(おびなた)氏のように武士の道をすて土着した人も少数ながらいたが、ほとんどの人は離村した。こうして、戦国時代とは大きく異なった、武士のいない村が新たな時代とともに新たな出発をするのである。