中世の社寺建築

1008 ~ 1009

わが国の木造建築は古来、中国の技術を受けいれながら、そこに日本独自の感覚を加味し、風土にあった、また工芸品のような精巧ですぐれた建築物をつくってきた。それは和様(わよう)(式)とよぶ伝統の建築様式である。

 鎌倉時代には、飛鳥・奈良時代以来二度目の、中国からの新しい建築様式が伝えられた。まず入宋(にっそう)僧の重源(ちょうげん)(東大寺再建の技術者でもある)により大仏様式(だいぶつようしき)が伝えられ、東大寺の復興で大仏殿の再建に用いられた。この様式は、構造に力点がおかれ、合理的な構造と仕上がりは豪放であり大建築には適している。しかし、デリケートな日本人には合わず、重源の死後は広がることなく和様のなかに部分として残るだけとなった。上伊那郡高遠町の遠照(おんしょう)寺釈迦(しゃか)堂(重文、室町後期)では、大仏様式の木鼻(きばな)と大虹梁(だいこうりょう)が使われている。


図4 大仏様式の木鼻

 やや遅れて中国の北宋から禅宗が伝来し、それにともなって禅寺の建築様式も伝えられた。この新建築様式は唐(から)様式、または禅宗(建築)様式とよばれる。これがこんにちまで多用されている中国様式の禅宗様(よう)である。建物全体に木割(きわり)が小さく曲線が多い。とくに軒の反りが大きく、尾垂木(おだるき)は上方に反り、その先端が細くなるなど優雅である。部分においても、放射状の垂木(たるき)、また詰組(つめぐみ)とよばれる木組(きぐみ)の華やかさ、桟唐戸(さんからど)、凹凸のある木鼻(きばな)(図7参照)など装飾性が豊かで上品さと優雅さがあり、中世の人びとに大いに受けいれられた。とくに須弥壇(しゅみだん)と厨子(ずし)や堂塔の内部は、純粋な禅宗様でつくられた。前記の遠照寺釈迦堂内の須弥壇と多宝塔(附指定重文、室町後期)、小県郡丸子町の法住(ほうじゅう)寺虚空蔵(こくうぞう)堂の須弥壇(附指定重文、室町後期)、同郡青木村の大法寺観音堂の須弥壇と厨子(重文、室町中期)は純粋な禅宗様である。また、上田市の国分寺三重塔(重文、室町中期)は外部は純和様だが初重内部は禅宗様である。

 室町時代に流行した禅宗様は、しだいに和様建築と融合していった。室町時代以降こんにちまでの木造建築は折衷(せっちゅう)様式ともよばれ、ほとんどの建築物が和様を基調として禅宗様が混合しているのである。つまり仏寺建築はもちろん、古代建築の様式(和様)を残す神社建築にも禅宗様が使われた。こうして今では純粋な和様の建築物は皆無といってよい。


図5 法住寺虚空蔵厨子(こくぞうずし)(重文)(小県郡丸子町)
禅宗様、妻入、屋根の反りが大きい。