禅宗様式は伽藍配置と仏寺建築の建物の形、および部分にその特徴がある。まず建物の配置(古来より伽藍配置とよぶ)については、禅宗独特の使いかたと呼称の禅道場(座禅堂)が境内の西、方丈(ほうじょう)(住職の住まい)、東司(とうす)(便所)が境内の東などと建物の配置が決められ、その名称も新たに登場した。つまり、禅宗寺院では本堂を仏殿(ぶつでん)、中門・山門を三解脱(さんげだつ)門の意味から三門(さんもん)と禅宗の呼び名でよんだ。こんにちでもその名称は用いられている。また、庶民仏教(浄土宗など)では、開祖の遺影や像を安置する祖師(そし)堂、御影(みえい)堂がつくられた。
禅宗の曹洞宗寺院では山地伽藍として、塔を本堂(仏殿)の後方の山中に建てた。安楽寺八角三重塔は裏の山のなかにある。
禅宗様式の寺院は小規模の建物が多いが、貫(ぬき)の多用によって建物が丈夫となり、細長い柱で背の高い建物となった。また、屋根裏の桔木(はねぎ)(化粧垂木の裏側にあり屋根の荷重を支える構造材)の発明によって深い軒が可能となり、屋根裏空間は広がり、大きな屋根の建物となった。
また方丈や庫裏(くり)(寺の家族の住まい)には玄関がつくられ、そこに唐破風の屋根が設けられた。この唐破風の意匠はその後、建築物が優雅で格調高くなるため多用された。現善光寺本堂、同仁王(におう)門、松本城などにみられる。享禄四年善光寺造営図のなかにも、やはり唐破風付きの四脚門(しきゃくもん)(図31)と春日造りの熊野社(図29)が存在した。春日造りの唐破風はたいへん珍しい。また江戸時代に、善光寺境内に中世以来の五重塔を再建しようと五重塔の設計図がつくられたが、その塔の初重屋根に唐破風が付けられている。こうしてみると、鎌倉時代に登場した唐破風はその後かなり流行したようである。
内部を見ると、大虹梁により大きな空間が可能となった堂内は、円柱により外陣(げじん)と内陣(ないじん)に区切られた。外陣が礼堂(らいどう)であり、板の間としてそこから奥を礼拝した。内陣は仏の空間で、畳敷(たたみじき)で来迎壁(らいごうへき)の前に仏像安置の須弥壇(しゅみだん)がつくられた(図9参照)。このように手前が板敷、奥が畳敷と堂内の床の高さが明確に区切られていた。また、外陣は化粧(けしょう)屋根裏(化粧垂木が露出した斜めの屋根裏のまま)、内陣は禅宗様の鏡(かがみ)天井である。なお、禅宗寺院の仏殿の鏡天井には墨書で竜の絵が描かれた。
外陣の前部(出入り口)は「塼(せん)(瓦のように焼きあげた土の煉瓦(れんが)タイル)を四五度方向に敷きつめた四半敷(しはんじき)とした。塼の使用、土間の床となったことは、奈良時代にもどったようでもある。
細長い円柱は上下端に急激な丸みの粽(ちまき)を付ける。礎石とのおいたに礎盤(そばん)があり、この丸みが強調される。北佐久郡御代田(みよた)町の真楽(しんらく)寺仁王門にみられ、禅宗様式の特徴である。この粽付柱は柱を美しくかつ力強く見せるためか向拝柱(ごはいばしら)の方柱にも応用されている。これは戸隠村の江戸時代の十二社本殿の向拝柱にもみられるように神社建築にも使われた(図35―34参照)。
前述の中禅寺薬師堂は柱も全部方(角)柱であり、その角(かど)を大きく削り落とす大面取(めんどり)がほどこされている(図14、図15参照)。
この面取の寸法(面取率)は時代によりほぼ一定している。したがって時代の見分けの手がかりになる。面取率を柱幅に占める面見付(みつけ)の割合で示すと、鎌倉時代は六分の一から七分の一、室町時代は八分の一から九分の一である。
南安曇郡穂高町の松尾(まつお)寺本堂(重文、室町後期)の軒支(のきささえ)柱、大町市の盛蓮(じょうれん)寺観音堂(重文、室町後期)の母屋(もや)柱(両者は当然方柱)は、面取率が九分の一であり室町時代の大面取となっている。このように向拝柱はかならず方柱であるので、中世の建物はその大面取によって明らかになる。しかし、南安曇郡梓川村の大宮熱田(おおみやあつた)神宮本殿(重文、室町後期)は、方柱であるべき向拝柱が円柱である。
鎌倉時代は禅宗様式によって柱の前後左右を貫で連結し、しかも頭貫(かしらぬき)、腰(こし)貫、縁(えん)貫(または地貫)と壁には三段も使われた。とにかく建物が頑丈になり、それまで耐震壁でもあった土壁は板壁に変わった。禅宗様では竪板張(たていたばり)とした。安楽寺八角三重塔の裳階は竪桟(たてさん)でおさえた竪板壁である。
和様では厚い一枚板の板戸(図22)であるのにたいし、禅宗様式では框(かまち)の枠組(わくぐみ)に細い桟をつくり、薄い板を入れた桟唐戸となった。藁座(わらざ)で支えられた軽い桟唐戸は、開閉が楽になるばかりでなく、見た目も華やかであり、善光寺現本堂は両折(もろおり)桟唐戸となっている(図35参照)。
桟唐戸の上部と禅宗建築の外(板)壁の欄間(らんま)には、弓連子(ゆみれんじ)とよばれる美しい曲線の細い格子(こうし)が用いられる。採光と通風・換気のための開口部であるが、同時に外観の立ち姿を優雅にした。安楽寺八角三重塔裳階に見られる。また、格子の四角形窓にたいして、禅宗建築の窓は外に火炎形の枠をもつ火頭窓(かとうまど)(内側に障子が入る)とし、ここにも曲線が用いられ外壁は優雅になった。以後寺院(本堂、庫裏など)の窓として定着していった。
貫が柱を貫通して反対側に出た部分を木鼻(木の端、突起)とよび、鎌倉時代は単純な刳形(くりがた)(凹凸のある立体彫刻)であった。安楽寺八角三重塔の木鼻の刳形は円弧の連続になっている。室町時代になると、側面に渦巻(うずまき)の絵様(えよう)(浅い彫刻)をほどこした(禅宗様)。小布施町の浄光(じょうこう)寺薬師堂(重文)の「応永(おうえい)の渦巻」とよばれる深い渦文はその代表であり、これと同じものが北佐久郡御代田町の応永年間(一三九四~一四二八)の真楽(しんらく)寺仁王門にみられる(図20拳鼻参照)。
その木鼻の絵様と刳形が具象化して、動物の形へと発展した。最初に(ハートの口をもつ象の顔となったのである。この象鼻とよばれる木鼻は、しだいに想像の霊獣(吉祥の動物)である獅子(しし)、貘(ばく)や麒麟(きりん)の姿となっていった。なお、桃山時代以降には写実的となる(図7)。
最初の動物系の木鼻としての象鼻は、象といっても猪(いのしし)のようでもある。上田市の前山寺三重塔初重の象鼻、南佐久郡臼田町の新海三社神社東本社(重文、室町後期)の木鼻はこの初期の獣面の象鼻である。しかも後者の顔は「阿形(あぎょう)」、「吽形(うんぎょう)」となっており、それ以降、柱上部に付けられた動物の木鼻が、開口の阿形、閉口の吽形となる基本となった。向拝柱(外側面)の貫は象鼻となる場合が多い(図22参照)。また、植物の形になった木鼻の例は、北佐久郡望月町の熊野神社などに数多く見られる。なお木鼻のうち拳(こぶし)形のものを拳鼻(こぶしばな)(図35―42)とよぶ(図4、図11、図20参照)。
蟇股(かえるまた)は虹梁や頭貫の上に用いる中備(なかぞなえ)(構造材、束(つか))である。蟇股(図35-29)は鎌倉時代になると、妻壁のものが中国の宋の影響で大瓶束(たいへいづか)(構造材、図35―6)となった。浅川の諏訪神社本殿の妻飾りである花肘木(はなひじき)(図35―47)付きの大瓶束は、やや背が高いが力強い(図35―6参照)。
いっぽう、中備の構造材でもある板(いた)蟇股(図6)が装飾として「本(ほん)蟇股」(図35―29参照)となり、その内側には透かし彫りの動植物の彫刻がほどされた。下伊那郡下条村の大山田神社本殿と相殿(そうでん)(ともに一間社流造り、重文、室町後期)の本蟇股では、鳩(はと)と橘(たちばな)、牡丹(ぼたん)の透かし彫りの彫刻である。動植物の彫刻は室町から桃山時代にはとくに牡丹と唐獅子、松と鶴など吉祥紋や十二支(じゅうにし)などと多種類となった。また動植物以外では家紋や寺紋が刻まれる。戸隠村の南方(みなかた)神社本殿(県宝、桃山時代)の板蟇股では、諏訪神社紋である梶葉が陽刻されている(図8)。南安曇郡穂高町の松尾寺本堂の内陣と外陣の境となる梁にある本蟇股は、複雑な透かし彫りで、仁科(にしな)氏の紋の揚羽蝶(あげはちょう)が二匹刻まれている。
軒や屋根を支える斗、斗栱(ときょう)の組物(くみもの)は、垂直の木口(こぐち)をもつ古来の和様にたいして、禅宗様は半円弧の曲線(図6参照)となり優雅な形となった。禅宗様の組物(斗栱枡)は小型であり、組物の数が多く、あたかも木組の塊(かたまり)のようである。上田市国分寺三重塔の内部は禅宗様の小さな木組によって、あたかも雛型(ひながた)のようでかわいくて華やかである。とくに詰組(つめぐみ)とよばれる柱間にのる組物はそれ自体が装飾となる(図5、図10参照)。
和様の尾垂木(垂木は棰(たるき)とも書くことがあるが、これは日本でつくった漢字)が太くて長方形の断面であるのにたいして(図10参照)、禅宗様では五角形の断面で尖端が細くなり、その違いは明らかである。また、軒をつくる化粧(けしょう)垂木の並びかたは、禅宗様では放射垂木または扇(おおぎ)垂木とよばれるものとなり、垂木が中心へと向かう並びかたは平行垂木(図35―36、図19)と違って華やかで美しい。新海三社神社三重塔においては、初重が禅宗様の扇垂木であり、二、三重は和様の平行垂木である。