寺院建築の堂塔の内部空間が、柱により内陣と外陣に区切られていくことは前述したが、その内陣の中央の奥にあるべき来迎(らいごう)柱と来迎壁は柱筋より後方へとずれる。四天(してん)柱のうち後方二本だけの場合来迎柱とよび、この柱間の壁が来迎壁である。来迎柱は構造の発達によりかならずしも柱筋に柱がなくてもよく、かつ須弥壇(しゅみだん)前に広い空間をつくるために柱筋より後方にずらしたのである。これが鎌倉時代から室町時代における内部の変遷である。
鎌倉末期の大法寺三重塔の初重内部における来迎柱は、柱筋より後方へと後退している。同じように小布施町の浄光寺薬師堂、高遠町の遠照寺釈迦堂の内陣の来迎壁(須弥壇は禅宗様)も、やはり柱筋よりずれて後方にある。
また、上田市東塩田の西光寺阿弥陀堂(県宝、室町後期)の須弥壇は後世の変更の結果、最深部に付いていたが、修復工事により室町時代の当時の姿として、柱筋より後方の位置に来迎壁と須弥壇を復元した。
柱間にくる中備(なかぞなえ)には構造材の板蟇股、間斗束(けんとづか)、撥(ばち)束、蓑(みの)束があるが、信州には撥束とすべきところをその束(つか)の材のみが省略され、通し肘木に斗だけが付く特異な姿のものがある。しかも斗の底部に束との継口のホゾ穴まであけてある場合もある。国分寺三重塔、遠照寺釈迦堂、西光寺阿弥陀堂、駒ヶ根市の光前寺弁天(こうぜんじべんてん)堂(重文、室町中期)など県下にその例がたくさんある。前述の「善光寺造営図」のなかにも、束のない斗束(ますづか)が描かれていた(図24参照)。これは信州のみに室町時代に流行した装飾であろう。