自然現象を「神」として、その山や岩、森を崇拝することから始まった神社建築は、諏訪大社のように拝殿のみで山そのものが御神体であり、本殿がない古式の神社もある。鳥居、拝殿、本殿などの建物は一直線上に並び、地形によっては鳥居の位置がずれる場合もある。また、仁科神明宮のように大きな伊勢社や皇太神宮では、一の鳥居と二の鳥居は互いに直角の位置関係となる。
神社はその地域の尊崇をうけ、長い参道や建物が豊かな緑で囲まれ、玉垣、狛犬(こまいぬ)像、鳥居、手洗場、拝殿、本殿などが自然と一体となっている(図13参照)。ときには玉垣に囲まれた神域に神楽殿(かぐらでん)や宝物庫、合併した数棟の社(やしろ)や摂社(せっしゃ)が並び、そして透かし塀に囲まれた本殿が、大きな拝殿の後方にあるのが大きな神社の典型的な配置と建物の構成である。また、本殿が拝殿より高い場所、しかもかなり離れた後方の山の傾斜地にある場合もある(図17参照)。
神社の中心である本殿は、かならず境内の中心線上の奥に位置し、鬱蒼(うっそう)とした社叢(しゃそう)に囲まれ、ときには山陰に、または大きな覆屋(おおいや)に守られている場合が多い。長野市芋井の葛山落合(かつらやまおちあい)神社本殿はかつては覆屋のなかにあった。そして本殿と摂社、末社(二~三棟)が相殿、合殿としていっしょにその覆屋に集められている場合もある。
大きな覆屋のなかには、小さな数棟の社殿が並列にある場合や、その社殿の形式と大きさがほぼ同形同寸の流造りの場合と、流造り、春日造り、神明造りなど異なった造りが混合する場合がある。前者の例には下伊那郡阿南町の八幡神社本殿と諏訪神社本殿があり、同形でほぼ同じ大きさである。後者の例として望月町春日に諏訪神社本殿(流造り)春日神社本殿(春日造り)が並び、形式も大きさも異なる。とくに望月町の場合二棟の本殿はかなり大きい。
つぎに、本殿の近くに摂社(境内社)である小社の社殿がある場合もある。その摂社の位置と社殿形式およびその大きさについては、葛山落合神社のすぐ近くに同形式のものがあり、大きな春日造り本殿の斜め横に境内社の小さな春日造りの諏訪社がある(図13参照)。また、特殊な関係にあるものとして、上田市下之郷の生島足島(いくしまたるしま)神社では本殿が境内の南側に北面してあり、摂社の諏訪社(桃山時代)は池と神楽殿をはさんで五〇メートルほどの距離で北側に南面しており、互いに社殿が向き合っている。
社殿の外観を見ると、古代の神社建築は、神明造り(図3③)、大社(たいしゃ)造りなど部材は太く、直線的であり、簡潔な造りであった。屋根には千木(ちぎ)が天を突き、太い勝男木(かつおぎ)が威厳を示すという素朴な力強いものであった。中世には仏寺建築の影響をうけて組物や妻の構造が複雑化し、色彩や彫刻装飾が多くなり派手になった。生島足島神社の摂社である諏訪社は桃山時代のもので背が高くスマートな造りで、しかも極彩色仕上げである。直線的であった屋根は、曲線が使われ、仏寺建築に似た造りになった。そして古代神社建築に付けられた千木や勝男木はかならずしも付けられず、瓦葺の神社さえある。
部分にみられる変化では、古代の神社建築は舟肘木(ふなひじき)(仁科神明宮など)の簡単な組物であったが、出組(でぐみ)、三斗組(みつとぐみ)の仏寺建築の軒(のき)構造、その斗栱(ときょう)に刳形(くりがた)をもつ実肘木(さねひじき)や蟇股、木鼻などの複雑な組物と装飾が増えた。
過大な装飾で独特の姿となっているものに、大町市の若一王子(にゃくいちおうじ)神社本殿(重文、室町後期、一間社隅木入春日造り)がある。軒や向拝、高欄(こうらん)(その手摺(てすり)の束は複雑)に仏寺建築の組物がふんだんに用いられ、さらに装飾過大ともいえる木鼻や彫刻など地方色の強い奇怪な感じがする本殿でもある。また、箱棟の両端に木製の鬼面(おにめん)の大きな鬼板が付く。これは信州の神社建築の特徴でもある(図35―51参照)。
しかし、確かに曲線が多く、また部材が細くなっていくなかで、古来の舟肘木の組物、疎(まばら)垂木、妻構造が扠首(さす)(斜め材の合掌形)という素朴な社殿のものもある。飯山市の健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社末社の若宮八幡宮本殿(重文、室町中期、一間社流造り)や、木曽郡大桑村の白山神社・蔵王社・伊豆社・熊野社(重文、室町前期)の四社は、覆屋のなかに並列(へいれつ)に並ぶ一間社流造りで、後者の見世棚造りの四社は細くて長い舟肘木をもつ。これらは小規模の社の場合が多い。また、神明社は古式のままのものが多い。