葛山落合神社本殿

1023 ~ 1025

長野市域には、前述したように鎌倉時代の建造物は残っていない。しかし、室町時代の神社建築が覆屋のなかに二棟と屋外に二棟の四例ある。残念ながら寺院建築は残っていない。社殿はそれぞれ春日(かすが)造り、流(ながれ)造りが二棟ずつである。

 芋井入山の葛山落合神社は、言い伝えによると孝元天皇のときに戸隠一山三千坊の一部として勧請(かんじょう)されたというが、孝元は『記紀』の伝承上の天皇である。また、建武年間(一三三四~三八)に、この地の領主落合(おちあい)氏が勧請したとも伝えられる。近世には人山村など七ヵ村の総社であった。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)である。

 寛政十二年(一八〇〇)に社号は葛山(かつらやま)落合神社となるが、それまでは熊野権現、熊野大神宮といわれていた。熊野神社の建物(本殿)は春日造りである。これらの熊野神社と春日神社(ともに春日造り)の社殿は北佐久郡望月町に多い。


図13 葛山落合神社境内
東に境内社の諏訪社がある。

 落合神社本殿(重文)は室町時代中期のもので、一間社隅木入(すみぎいり)春日造り、柿葺(こけらぶき)である。同じ形式のものに大町市の若一王子(にゃくいちおうじ)神社本殿がある。長野市には春日造りは珍しい。隅木にあった墨書によると、寛正六年(一四六五)の建立である。また、天文(てんぶん)十六年(一五四七)善光寺町桜小路の大工らによって修理されている。

 建築上の特徴としてはつぎのようなことがあげられる。切目縁(きりめえん)を三方に回す(高欄(こうらん)はない)。腰長押(こしなげし)、内法(うちのり)長押、また頭貫(かしらぬき)を通す。柱上には三斗組(みつとぐみ)で丸桁(がんぎょう)をうける。向拝(ごはい)柱は方柱で、大面取(おおめんとり)は室町時代の面(めん)の率である。木鼻の渦巻絵様、刳形(くりがた)も室町時代の意匠である。向拝柱の頭貫が側面で木鼻となり、上に皿板付斗(さらいたつきます)、連三斗(つれみつと)とする。皿板は室町時代に用いられ、県下の建物にみられる(図35―41参照)。向拝の頭貫上には本蟇股(ほんかえるまた)(内側に牡丹の彫刻)があるが、この本蟇股は後補である。直線に近い海老虹梁(えびこうりょう)で母屋(もや)を繋(つな)ぐ。五段の階(きざはし)、その前に浜床(はまゆか)をつける。母屋正面は小脇(わき)柱を立て両開板扉(いたとびら)で、箱棟の両端には鰭付(ひれつき)鬼板がある。正面の妻の拝懸魚(おがみげぎょ)は蕪(かぶら)懸魚で、斜めの木連(きつれ)格子は珍しい。

 繁垂木(しげだるき)の一軒、背面は切妻造り、豕扠首(いのこさす)(古い構造)、拝懸魚と降(くだり)懸魚は猪(い)ノ目(め)懸魚である。実肘木(さねひじき)と木鼻は室町時代の形を示す。横板張り向拝柱や軒裏の斗栱(ときょう)に彩色の赤色が残る。

 昭和三十二年に解体修理したが、それまでは覆屋のなかにあった。隅木入一間社春日造りとしては大型であり、室町時代のようすをよく伝える貴重な建物である。


図14 葛山落合神社本殿
隅木入一間社春日造り。木連格子が珍しい。


写真2 葛山落合神社(1)
春日造り東側面、三方に回縁(まわりえん)付、縋破風(すがるはふ)(向拝(ごはい))


写真3 葛山落合神社(2)
背面、切妻の破風、三つの懸魚(げぎょ)は「猪ノ目(いのめ)」