善光寺境内の建築設計図

1032 ~ 1043

室町時代の享禄(きょうろく)四年(一五三一)の墨書(ぼくしょ)銘のある、わが国現存最古の「建築指図(さしず)」が善光寺大勧進に存在することが、昭和六十一年(一九八六)に確認された。


図23 発見された善光寺造営設計図
 墨書銘に享禄4年(1531)とある。巻子状で長さ8メートルあり7種類の建物の11図から成っている。この図は説明用に仮に模写したもの。原図は善光寺大勧進蔵

 これまで最古の建築古図としては「東大寺講堂院図」(建物の配置図)が知られ、それにつぐのが本格的な建築物の設計図である永禄二年(一五五九)「談山(たんざん)神社本殿指図」(建物の簡単な立面と断面図が描かれたもの)であったが、善光寺の図はそれよりも二八年も古く、かつ内容的にもすぐれており、近年重要文化財に指定された。

 発見された指図を「善光寺造営図」とよんでおくが、これは大きな長い巻子(かんす)の一巻となっており、善光寺境内の付属諸建築物が描かれている。ただし、五重塔図はふくまれていない。おそらく、これとは別に本堂(如来堂)を中心とした設計図がもう一巻あったのであろう。

 巻物状で縦一四四センチメートル、長さ八一一センチメートルある。墨芯(すみしん)で書かれた七種類の建物の一一の図が上下左右に貼りあわされている。つまり、別々に描かれた図面をある時期に貼りあわせて一巻にまとめたものであり、この図は墨書の享禄四年の年号と建物の種類および特徴から、室町時代後期に描かれたものであることは確かである。

 各図には縮尺が書かれてはいないが、中世の図面が三〇分の一か一〇分の一の縮尺であることから、図中の寸法を割りだすと縮尺は一〇分の一である。

 各建物には縦書きの文章が図の横に書かれ、また図中には部材の寸法、勾配(こうばい)など必要なことが記されており、この図から室町時代の善光寺建築と信州の中世建築の特徴を読みとることができる。

 各建物の図から室町時代の特徴をつかみ、また完成想定図を描いて長野県下の中世建物と比較してみると、つぎのようである。

 全体として図から明らかなことは、肘木(ひじき)、斗(ます)が室町時代の比率および曲線になっているのはもちろん、実(さね)肘木、木鼻、簔束(みのづか)など刳形(くりがた)と渦巻の絵様(えよう)が、県下室町時代の建物と共通している。また、皿板付斗栱(さらいたつきときょう)や束のない間斗(けんと)束の存在など信州の中世建築の特徴を図から確認できる。以下、図面から室町時代の善光寺境内の七つの建物の完成想定図を描いてみる。

(1) 楼門(ろうもん)  入母屋(いりおもや)造り、正面三間(けん)(柱間)、奥行二間の楼門で、山門であろう。一階は頭貫と飛貫(ひぬき)、端間には腰貫が二段入る。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、軒の組物は三手先(和様)とし、実肘木と拳鼻(こぶしばな)の渦巻絵様は内側からの巻きである。二階の柱間のうち中央間(ま)の中備(なかぞなえ)は簔束(みのづか)となっている。首部につけられた如意頭文(にょいとうもん)は中世に流行した文様であり、上田市の国分寺三重塔内部にもある。


写真9 楼門(中門)図
 右の間は写っていない。三門二戸(中央間が通路)、二階の中の間に「簑束(みのづか)」、脇間は束のない「間斗(けんと)束」。断面と立面を兼ねた図になっている。

 左右の柱間の中備はほんらいなら簔束か間斗束であるはずだが、その束部分か省略されて斗だけであり、通(とおし)肘木に吊(つ)るさがっており、構造材でなく飾りとなっている。小県郡丸子町の法住寺虚空蔵堂、南佐久郡臼田町の新海三社神社三重塔、上田市の前山寺三重塔、同車塩田の西光寺阿弥陀堂も同じように斗だけの間斗束である。これは信州中世の建築における特徴である。また、一階は三間とも中備は撥束(ばちづか)(末広がりの束)である(図24参照)。


図24 楼門設計図(模写)
 妻部分、屋根裏を断面図として描いている。


図25 楼門完成想定図

(2) 鐘楼(しょうろう)  鐘楼の立断面図の右下に短冊形の紙が貼(は)られており、そこには「善□寺 大工」(□内は「光」であるはず)「享禄四年四月吉日」とある。

 建物は入母屋造り、跳高欄(はねこうらん)付きで、袴腰(はかまごし)形の楼閣である。この形の鐘楼は中世から近世にたくさんの例があり、江戸時代の上田市安楽寺、同信濃国分寺はともに袴腰である。また、歓喜光寺蔵の『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』の一遍上人善光寺参詣の図のなかにもみられるので、中世の善光寺ではこの姿であったのであろう。図は屋根面に桁行(けたゆき)と梁間(はりま)の両方向を描き、断面に母屋小屋束を描く。また、妻(屋根)の右横に鬼板の正面図がある。図の左下に「中の間七尺間(けん)、脇(わき)の間六尺間、垂木(たるき)の数中十四、脇に十二、軒は九」とある。

 図の軒組部分である三斗組(みつとぐみ)の上に垂木を配置してみると六本並ぶ。つまり、鎌倉時代に考えだされた三つの斗の上にきちんと六本の垂木を並べる六枝掛(ろくしがけ)の木割(きわり)(部材寸法の比率、配置割り付け)法がおこなわれている。

 通肘木の先端の拳鼻が室町時代の刳形(凹凸)であり、この拳鼻に施された渦巻文の絵様(浅い彫刻)は、つぎの(5)の熊野社の木鼻と同じで内側から巻き上げている。県下の室町時代の渦の巻きかたは、内側から巻くものが多い。ただし、飯山市の白山神社本殿、長野市の葛山落合神社本殿は外から巻く。


写真10 鐘楼設計図
 隅の中備(なかぞなえ)は三ノ束、実肘木(さねひじき)の先端に内側からの渦巻がほどこされている。図の右下にこの図面製作の貼紙がある。


図26 鐘楼設計図(模写)
 右下の貼紙に「善光寺」の名と年月日の墨書がある。


図27 鐘楼完成想定図

(3) 回廊  回廊の断面図である。梁間は一間、外側は連子格子(れんじこうし)であろう(『善光寺如来絵伝』によると、回廊の外側は上部に連子格子)。そして内側は吹き放しで壁はないと思われる。柱の斗栱に虹梁(こうりょう)を架けわたす。その梁(はり)の中央に太い大瓶束(たいへいづか)をのせて棟を支えている。その太い円束と虹梁との接続する仕口(しぐち)である結綿(ゆいわた)(梁にまたがるように接続する。その外面は飾りの彫刻として綿の花の形)は深い接続となっている。小布施町の浄光寺薬師堂、浅川の諏訪神社本殿も同様である。破風板(はふいた)の先端にもやはり渦巻文がほどこされている。


図28 回廊完成想定図
 大虹梁(だいこうりょう)の上に大瓶束(たいへいづか)が見える。外部に格子(こうし)がある。

(4) 回廊の屋根伏せ図と方形堂  回廊と同じ紙に描かれ、屋根の垂木の平行線が並んでいるが、その図に重ねて四角の柱が二本ある。どういう意味か不明だが、これは『一遍聖絵』、『善光寺如来絵伝』にみられる回廊隅部にあった方三間のお堂の方柱かもしれない。方柱は大面取(おおめんとり)となっており、その面(見付)の比率(柱幅にたいする面見付の割合)は九分の一から一〇分の一であり、室町時代の比率である。

(5) 熊野社  春日造りの熊野(くまの)社の正面図と側断面図である。横に「熊野三ちゃ(しゃ・社)屋シロのさしず」とある。「三ちゃ」とは三間社(さんけんしゃ)であり、図面の呼び名が指図(さしず)だと分かる。熊野社は善光寺の古地図や絵図には、横長で三間社らしく描かれてかならず存在している。正面図にある三間の縋破風(すがるはふ)の向拝には中央一間に唐破風が付いており、この形の春日造りは非常に珍しい。唐破風は鎌倉時代から用いられるようになった意匠で、これを付けると建物が威厳を増す。現善光寺の本堂・仁王門や、松本城、善光寺大本願の唐門など近世の建物に多く使われている。

 また、側面図から向拝の桁(けた)が三本となっていることが分かる。これこそ信州の神社建築の特徴である。飯山市の白山神社、大町市の若一王子(にゃくいちおうじ)神社、松本市の筑摩(つかま)神社、北佐久郡望月町の大伴(おおとも)神社と熊野神社の本殿、同郡浅科村の八幡社境内神社の高良(こうら)社(以上重文)などが同様である。

 さらに向拝柱(つぎの神明社にもある)の側面(外側)へ貫通した頭貫が肘木(ひじき)となり、皿板付斗栱(さらいたつきときょう)となっている。この皿板(または皿斗(さらと)ともいう)は浅川諏訪神社と葛山落合神社の本殿にもみられる(図15参照)。

 鎌倉時代に東大寺の再建に用いられた中国の宋の建築様式、つまり大仏様式の部分である皿板付斗が、室町時代の社寺建築に伝えられた。ときには挿(さし)肘木の皿板付斗栱もある。そしてこの皿板は江戸時代にもあちこちの建築物にみられる。

 側面図左横に熊野三社図の説明書があり「木クダキの事 口伝(くでん)あり」とある。木クダキは「木砕き」と書き、屋根の勾配や架構の仕方を口伝する方法で「木割り付け」のことである。垂木と斗栱、隅木(すみぎ)などの各部の寸法の取りかたの比率が口伝されており、江戸時代にはこれを規矩(きく)術といった。室町時代には「木砕き」とよんでいたことがわかる。屋根のところには「ふき地の小はい(葺き地の勾配)八寸三分」とある。


写真11 熊野社設計図
 (右)正面図(軒部分は断面)、(左)側面図 正面向拝の中央に唐破風が付く。三間社、廻(まわ)り縁付(えんつき)である。


図29 熊野社完成想定図
 浜床(はまゆか)付き三間社、春日造り、正面に唐破風(からはふ)

(6) 神明社  側面図のみである(この側面図の裏面に正面図が貼り合わされている)。直線の板葺屋根で、棟には置千木(おきちぎ)がのる。神明(しんめい)造りは破風板がそのまま通(とおし)千木となるので、この場合は神明社の簡略化ともいえる。その千木の先端は水平に切られており、伊勢神宮の内宮と同じである。棟木には太い勝男木(かつおぎ)(堅魚木)がのる。その上部はシノギ(削り)がほどこされているので五角形であろうか。実(さね)肘木付連三斗(つれみつと)の組物であり、舟肘木ではない。妻構造は豕扠首(いのこさす)、側面中央に棟持(むねもち)柱が土台の上に建っている。


写真12 神明社側面図
 仏寺用の組物が使われている。正面に縁がない。置千木(おきちぎ)と勝男木が棟にのる。


図30 神明社完成想定図
 屋根は直線である。棟持(むねもち)柱がある。親柱のある高欄(こうらん)

 図では側面と背面の三方に高欄(こうらん)付切目縁(えん)がめぐっているが、切目縁が正面にはなく不思議な形である。どうして直接に階段が母屋(もや)に付いているのか、妙な形である。あるいは図の描きかたにより省略した表現かもしれない。

 神明社は中世の善光寺にもあった。『善光寺参詣曼荼羅(まんだら)図』にも境内の東にみられる。山梨県甲府市の甲斐善光寺にも例がある。また、善光寺の東に伊勢町があるので、中世から近世には間違いなく伊勢社・神明社があった。階(きざはし)の昇(のぼり)高欄の前に「如来之大工遠江守七十才の時之作目かすみ候」とあり、この設計をした人物と事情が記されている。

(7) 四脚門  側面と正面図。正面一間、側面二間の四脚(しきゃく)門で、入母屋造りである。側面の中央冠木(かぶき)上に大斗、実肘木付の三斗組がのり、その妻側に唐破風がつくが、これは珍しい。その唐破風は蕪懸魚(かぶらげきょ)となっているが、唐破風の場合の懸魚は兎(う)ノ毛通(けどおし)が通例で細かな彫刻のはずである。この門は東・西門なのであろうか。唐破風が付くと優雅な門であるので正面の南門、南大門であるかもしれない。それにしても平唐門というのが珍しい。唐破風が正面を向くのが向(むかい)唐門であり、平唐門のほうが古い。

 正面図の下に框(かまち)を組んだ両開き扉が描かれている。


写真13 四脚門
 (右)側面図(唐破風付)(左)正面図 垂木(たるき)の配置を断面として描いている。各部材の説明書がある。


図31 四脚門完成想定図
唐破風が側面につく平唐門(ひらからもん)

 以上、造営設計図から見てきた室町時代の善光寺境内建築物について、その形や部分、室町時代としての特徴をまとめてみると、つぎのようになる(図23)。

① 本堂、五重塔以外の境内諸建築物の設計図であり、『絵図』(次項参照)や『曼荼羅図』と一致する建物の形である。

② 立面と断面(屋根構造)を合わせた建物「指図」である。

③ 寸法、部材や屋根勾配の記入がある。

④ 「木クダキ口伝」とあり、規矩(きく)術の前身のことばである。また、斗と垂木は六枝掛(ろくしかけ)となっている。

⑤ 回廊は太い大瓶束(たいへいつか)で、深い仕口(結綿)となっている。

⑥ 回廊隅に方形お堂があったかもしれない(『絵図』『曼荼羅図』にある)。

⑦ 斗栱は和様であり、斗(斗の形の比率、斗尻(とじり)のカーブ)は室町時代相応である。

⑧ 実肘木、木鼻の内側から巻く渦巻絵様と刳形は室町時代特有のもので、破風板の先端にも渦巻絵様がある。

⑨ 束(つか)のない間斗(けんと)束が楼門にみられる。信州室町時代建築の特徴である。

⑩ 熊野社には三本の桁があり、信州中世の神社建築の特徴である。

⑪ 皿板付斗(大仏様式)が熊野社と神明社にある。

⑫ 熊野社は三間社の春日造りで、正面の向拝に唐破風がつく珍しい形である。

⑬ 神明社は他の神明造りにない形で、仏寺建築の様式の使用である。

⑭ 四脚門は入母屋造り平入りで、唐破風が側面に付く平唐門である。

⑮ 鐘楼は袴腰(はかまごし)形式である(『善光寺如来絵伝』『一遍聖絵』にある)。

⑯ 山門(中門)は楼門形式である(『善光寺如来絵伝』にある)。

⑰ 山門の中備として撥形(ばちがた)の蓑束(みのづか)(如意頭文の飾り付き)が使われている。

 以上から和様と禅宗様が混合しており、とくに神社建築には複雑な寺院建築の組物が用いられていることがわかる。また⑨の束のない間斗束、⑩の熊野社の三本の桁、⑪の皿板付斗の存在、⑫の熊野社や四脚門に用いられている唐破風がそうであるが、⑨⑩⑪の三点は信州室町時代建築の特徴であり、⑫の唐破風は室町時代以降多用されはじめることなどが確認できた。いずれにせよ、善光寺と中世の信州建築物を知ることができるきわめて貴重な造営図である。

 『善光寺如来絵伝』(写真14参照)を参考にして、この図面の建物を善光寺伽藍として復元してみると、およそ図32のようになる。伊勢社(神明社)の位置は『小山善光寺善光寺参詣曼荼羅図』を参考にして築地塀の外の東側にした。また回廊隅部の法華堂、常行(じょうぎょう)堂は単層回縁(まわりえん)付きとした。問題の五重塔は、文明六年(一四七四)に焼失してこの享禄四年(一五三一)には再建されていなかったと思われるが、『絵図』などの位置、および大きさから考えて中心線上にした。本堂は重層で五間、九間としたが、正面の向拝には唐破風および脇向拝は付けなかった。


図32「善光寺造営図」による伽藍復元想定図
1500年代(室町時代後期)、本堂に唐破風はつけない。