現在の善光寺は、本堂をはじめ山門(さんもん)、経蔵(きょうぞう)、鐘楼(しょうろう)は三〇〇年をへた木造・檜皮葺(ひわだぶき)の大建築・大伽藍(だいがらん)である。とくに本堂は宝永四年(一七〇七)完成の江戸時代を代表する名建築であり、その撞木(しゅもく)造りとよばれる屋根の造りは、善光寺本堂独特の形である。その現在の特殊な形の本堂は、中世の伽藍においてはどのようであったのか。
中世の善光寺について、(1)建物の配置、(2)各建物の形、(3)本堂の特徴はすでに中世にはできていたのかという三点の問題を、つぎの中世の『絵図』から検討してみる。
現存する中世の資料には、
①『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)(一遍聖絵(ひじりえ))』、
②『一遍上人絵詞伝(えことばでん)』、
③『善光寺如来絵伝』、
④『善光寺参詣曼荼羅(まんだら)図』
などがあり、まとめて『絵図』とよぶことにする。このうち①『一遍上人絵伝』は原本が京都市歓喜光寺(かんきこうじ)・藤沢市清浄光寺蔵(国宝)のもので、転写本が多数ある。そのほかの『絵図』は鎌倉時代から室町時代のものである。そのあいだの善光寺について本堂の火災、再建などや一遍らの善光寺参詣の状況、『絵図』の描かれた時期などを年表にすると、つぎのとおりである。
文永五年(一二六八)火災
文永八年(一二七一)春 一遍上人、第一回目の善光寺参詣
文永八年(一二七一)十月十九日 再建工事落慶法要
弘安二年(一二七九)一遍上人、第二回目の善光寺参詣
永仁六年(一二九八)一遍上人の後継者他阿真教が善光寺参詣
正安元年(一二九九)①『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』を聖戒(しょうかい)の文で、画家法橋円伊が描いた。
嘉元二年(一三〇四)② 『一遍上人絵詞伝』を宗俊が徳治二年(一三〇七)ころまでに描いた。
この間に③『善光寺如来絵伝』が成立した(愛知県本証寺蔵)。
応安三年(一三七〇)火災
応永三十四年(一四二七)火災
文明九年(一四七七)本堂火災
享禄四年(一五三一)「善光寺造営図(指図)」が描かれた。
慶長二年(一五九七)④『善光寺参詣曼荼羅図』がつくられた(大阪府小山善光寺蔵)。
右のうち、①『二遍上人絵伝』は『一遍聖絵』(口絵参照)ともいい、京都市の歓喜光寺蔵(原本)系のものである。これは正安(しょうあん)元年(一二九九)八月二十三日に聖戒らが描いた。この転写本はたくさんある。②『一遍上人絵詞伝』のほうは神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)蔵系のもので、宗俊が描いたものである。
これらの絵図は善光寺参詣のようすを上空から鳥瞰(ちょうかん)するように描いたものであり、原本(図)をもとにした転写本では人物を少しずつ違えて描かれている。しかし建築物は原本そっくりにしている。また、③『善光寺如来絵伝』、④『善光寺参詣曼荼羅図』は『善光寺縁起(えんぎ)』の絵が横に描かれており、伽藍の図は非常に密度濃く表現されている。
歓喜光寺本の『一遍上人絵伝』では、善光寺は第二巻の三段にある。一遍が文永八年(一二七一)の春に善光寺を参詣したようすを、一遍の死から一〇年後の正安元年に歓喜光寺の開祖である聖戒(と円伊ら)が描いたものである。
一遍が参詣したその年は、三年前の文永五年の火災で焼失した本堂の再建工事中であった。訪れたその年の秋、文永八年十月に落慶法要がおこなわれている。したがって、この『一遍聖絵』は文永八年の春のことなのでまだ境内は完全に完成してはいず、よって一部分を想像して描いたものか、または弘安二年(一二七九)と永仁六年(一二九八)に関係者が善光寺を参詣したときのようすを聞いて正安元年に描いたものかもしれない。
後述するように本堂の屋根とその形が問題となるのである。つまり本堂の形がおかしいのであり、撞木(しゅもく)造りが一二七一~九九年ころにできていたのかどうか興味のある点である。しかし、いずれにしても描かれている建物群は当時の実物に近いであろう。
一遍が参詣しているようすについて、善光寺伽藍を西南の上空から鳥瞰(ちょうかん)して描いている。これによって知られる境内の建物のようすは、あらましつぎのようである。
① 南大門(仁王門)は単層切妻造り、豕扠首(いのこさす)構造で、仁王像が見える。その左右から築地塀が境内を囲む。
② 基壇の上に建つ五重塔は方三間で、中の間(ま)は扉、左右の間は格子窓である。南大門と中門とのあいだで、やや中心線よりも西に寄ったところにある。
③ 中門(四脚門、単層切妻造り)は檜皮葺(ひわだぶき)で、白壁の側面の左右から回廊(上部に連子格子(れんじこうし))が連なり、本堂を囲む。
④ その回廊の東南と西南の隅に、宝形(ほうぎょう)屋根のお堂がある。回縁(まわりえん)付き、外側は白壁、内側・門側は舞良戸(まいらど)・桟(さん)が細かく入った板戸である。これは『一遍上人絵詞伝』にもみられるものであり、慶長二年(一五九七)の『善光寺参詣曼荼羅図』(小山善光寺蔵)にも同様な単層回縁付きの堂がみられ、東が「法華堂(ほっけどう)」、西が「常行堂(じょうぎょうどう)」(ともに念仏三昧(ねんぶつざんまい)をおこなう)とある。この宝形のお堂は本証寺の鎌倉時代末の『善光寺如来絵伝』にも描かれていて、東北、西北にもある。つまり回廊の四隅にお堂が存在しており、中世には「念仏三昧堂」があったといえる。
⑤ 熊野社は、本堂の後方、回廊の外に描かれている白壁の流造り(豕扠首の構造)の社殿と思われる。横に長いので三間社であろうか。『善光寺如来絵伝』『善光寺参詣曼荼羅図』では築地塀の内側、本堂の西に三間社が本堂東側を向いてある。
⑥ 熊野社の東には、白壁の入母屋造りで袴腰(はかまごし)付きの楼閣(ろうかく)の鐘楼がある。これは享禄四年(一五三一)の善光寺造営図にある鐘楼と同じである(図27参照)。妻側には格子窓(二間)が付いている。
⑦ その後方の北側には入母屋造りの建物群が並ぶが、僧坊であろうか。
⑧ 問題の本堂の造りについて、屋根の形と特徴を見てみると、檜皮葺の単層(平屋)の建物で、正面が七間、三間の縋破風(すがるはふ)の向拝付きである。屋根は中心線上に入母屋造りの妻(千鳥破風)を正面に向けた妻入りで、東西方向に長く、奥行きが四問(三間は板戸、前面一間は吹き放し)と浅い。善光寺本堂独得の奥行きが深い形ではない。周囲に切目縁(きりめえん)が付く。屋根は不思議な形である。入母屋造りの大棟が中央で直交している。つまり、棟が十字形をとっている特異な屋根となっていて、撞木造りのT字形ではない。どうして平屋なのか、本当に「十字形」の屋根が存在したのか疑問である。後述するように『善光寺如来絵伝』『善光寺参詣曼荼羅図』では檜皮葺、重層入母屋造りで、もちろん撞木造りに描かれている。
本堂の形がどうして他の『絵図』と違うのか検討してみよう。
この図は文永八年(一二七一)の善光寺参詣のようすを正安元年(一二九九)に描いたものといわれるが、善光寺は文永五年に全焼し、文永八年十月には再建の落慶法要がおこなわれた。一遍上人らがはじめて善光寺を訪れたのが文永八年の春であり、このときは善光寺は工事中であったはずで、本堂も伽藍もまだ完成していなかったであろう。すると、文永八年当時の建物ではないのかもしれない。
また、このとき聖戒は確かに同行したのか(このときは聖戒は同行していないという説もある)。同行したとしても聖戒らがこの絵図を描いたのが正安元年であるから、それ以前の弘安二年(一二七九)には一遍たちが二回目の善光寺参詣をおこなっている。聖戒が二回目には同行していないのは確かであるが、このときのようすを聞いて前回の見聞に自分の想像を加えて描いたものであろうか。つまり本堂はあくまでも想像で描いたということであろうか。
以上のことから、『一遍上人絵伝』の境内のようすは、文永八年の未完成の境内や本堂であるのか、あるいは文永八年のものではなく、それ以前の善光寺のようすを思い浮かべたものか、または正安元年までのあいだに再建された善光寺のようすを聞いて描いたのか不明である。
それにしても問題は、本当に単層であったものかどうかである。単層と重層では印象は大きく違うので、本堂の形や造りをそこまで間違うはずはない。
そこで、①本当に単層であったのか、②横長の本堂の形だったのか(どうして奥行きが浅いのか)、③十字形の棟とは不思議な形であり撞木形の屋根ではないのかという、三点の疑問について追求してみよう。
まず②の横長の形については、一般に寺社の本堂は横長である。本堂の屋根の話を聞いていざ描くときに、善光寺本堂独特の奥行きの深い形が理解できずに、一般的な形の横長にしてしまったものであろうか。③の不思議な十字形の棟とは、複雑な撞木造りの棟の形を聞き、入母屋造りの大棟が直交する姿を思い浮かべて屋根を描いた結果、このような十字形の棟にしてしまったのではないか。つまり、②③の二点の疑問については、聖戒は実見していないで話か報告を聞いて本堂の形を常識的な形とし、屋根は理解不十分のままに想像して描いたのではなかろうかと思われる。
この二点がそうであれば、やはり善光寺は現本堂と同じ形の撞木造りであったことになる。
ところで①の単層・平屋造りの問題については、平屋か、重層なのかは誤るはずがない。すると文永八年再建工事中の本堂はまだ仮堂で、単層の状態であったかもしれない。あるいは文永五年までの本堂こそ仮堂で単層であり、焼失する前の本堂を参詣時に聞いて描いたとも考えられる。しかし、後述するように文永八年後に再建された本堂は、応安三年(一三七〇)に火災で焼失するが、そのあいだに善光寺を訪れて見聞し、描いたと思われる鎌倉時代末の『善光寺如来絵伝』ではたしかに重層の屋根で奥行きの深い、しかも撞木造りとなっているのである。
けっきょく、文永五年までの本堂は仮堂で単層であったと考えられるが、十字形の棟はありえないので、本堂そのものを描き間違ったというのが真相ではなかろうか。
このように疑問はあるが、鎌倉時代には他の資料『一遍上人絵詞伝』、『善光寺如来絵伝』から見て、本堂は重層で奥行きが長い形の撞木造りであり、規模こそ違うが現本堂とほぼ同じ形であったのであろう。
本堂の形についての結論をいちおう示したが、以下、他の『絵図』からも、境内と各建物のようすが、どのようであったかを見ていこう。
『一遍上人絵詞伝』(清浄光寺蔵)は一遍の後継者である二世の他阿真教一行が、永仁六年(一二九八)に善光寺に参詣したときのものである。そのときの善光寺は、文永八年(一二七一)後に完成した建物群であったはずである。この『絵詞伝』は嘉元二年(一三〇四)ごろ描かれたという。弟子の宗俊も同行していたらしいので、この絵図は宗俊が見たものをそのまま描いたと思われる。
南方からの鳥瞰図で、全体の伽藍配置は『聖絵』とほぼ同じである。そこで、とくに本堂に注目して当時の建物を見てみると、つぎのようである。
① 南大門(仁王門)があり、仁王像が見える。
② 五重塔が、中門とのあいたに中心線よりやや西に寄ったところにある。
③ 中門(四脚門)は、檜皮葺の楼門で、側面白壁の左右から上部に連子格子のある回廊が延び、本堂を囲む。
④ 回廊の東南と西南の隅には、宝形(ほうぎょう)屋根のお堂がある。
⑤ 本堂の後方に白壁の流造りの熊野社と思われる社殿がある。
⑥ 本堂は重層の檜皮葺で、千鳥破風(妻)が正面と側面に付き、入母屋造りの妻入りで縋破風(すがるはふ)の向拝付きである。その屋根の形は撞木造りである。規模こそ小さいが現本堂とほぼ同じ形である。側面にも脇(わき)向拝があるが、正面の向拝には唐(から)破風は付いていない。前面一間の柱間と正面端の一間は格子窓、側面は蔀戸(しとみど)で、周囲に高欄付縁がめぐる。床下は亀腹(かめばら)になっている。
以上のことから、鎌倉時代にはまだ正面の向拝に唐破風が付いていない。床下は江戸時代の現本堂と同じように亀腹である。また、脇向拝が存在する。
なお、五重塔が中心線よりやや西に寄っているが、いずれにせよ四天王寺式伽藍である。
『善光寺如来絵伝』(本証寺蔵)は、南方の上空からの鳥瞰図であるが、伽藍配置や建物はこれまでとほぼ同じである。異なっている点は、中門が重層造りであり、その左右から始まる回廊には門のすぐ脇に入り口が設けられていることである。また、回廊の四隅に裳階(もこし)(庇(ひさし))付(上層は格子窓)の宝形のお堂がある。このお堂は回縁(まわりえん)はない。本堂は正面七間、奥行き九間(奥行きはあまりはっきり描かれていない)で、正面には三間の向拝がある(現本堂と同じ)が唐破風は付いていない。また脇向拝はない。
五重塔が南大門と中門とのあいたにあり、中心線上にある。四天王寺式の伽藍配置である。五重塔は今まで見てきた鎌倉時代の絵図においては、その位置が中心線よりやや西に寄っていたが、果たして鎌倉時代の五重塔はじっさいに中心線よりずれた位置に建てられたのか。あるいは単に絵図の上だけのズレなのかが問題になるが、このことは最後にみることとしたい。ともかく中世の善光寺伽藍は現仁王門の北側の位置であり、この位置こそ古代の善光寺の堂塔があった場所である。仁王門のすぐ北東から古代瓦が出土し、礎石もあったと伝えられる。古代の位置に中世の善光寺伽藍があったことになる。
『善光寺参詣曼荼羅図』(小山善光寺蔵)は、室町時代末のものである。絵図は真南から北を鳥瞰して描いている。犀(さい)川が手前に、北に裾花(すそばな)川がある(これを裾花川と鐘鋳川とみる説もある)。北の川を渡ったところから伽藍が始まっている。
楼閣の仁王像を安置する仁王門があり、築地塀が塔・山門・本堂など境内を囲み、東・西・北門がある。門はすべて楼門である。
仁王門(楼門)のすぐ北に五重塔、その奥には重層入母屋造りの山門(中門)があり、左右から回廊が延びる。隅部に方形のお堂。やはり四天王寺式伽藍である。
中心線上の奥に重層檜皮葺の撞木造りの本堂がある。妻構造は豕扠首(いのこさす)、上層に高欄が付く(現本堂にはない)。正面の向拝は一間の唐破風となっている。床下は亀腹になっている。
三間社の熊野社は本堂の西側の築地塀内に東を向いている。
袴腰付鐘楼が山門の斜め前の南東にある点は、鎌倉時代の『善光寺如来絵伝』とは位置が異なる。また、多くの建物が描かれている。仁王門と山門のあいた、現在の院坊の位置に涅槃(ねはん)堂、曼荼羅(まんだら)堂、五智(ごち)堂、法然(ほうねん)堂などびっしりと建物が存在していたことになる。これは曼荼羅図とよぶように、存在したすべての建物を必要以上に描いているのかもしれない。