木造伐折羅(ばざら)大将立像・木造伝聖徳太子立像

1083 ~ 1084

市文 一五世紀前半 元善町 善光寺本坊大本願蔵

檜材 一木造 彩色(現状素地)

  ・伐折羅(ばざら)大将  像高六八・五センチメートル

  ・聖徳太子   像高六七・七センチメートル

 十二神将像の一体で、伐折羅大将と伝えられる本像は、頭頂に大きな単髻(たんけい)を結い、両耳上に焔髪(えんぱつ)を刻む。面相は瞋目(しんもく)、閉口の忿怒(ふんぬ)相、上半身裸形で肩布、裳を着し、両腕を屈臂して右手は剣を執り、左手は腰元で拳をにぎり、両脚を開き沓(くつ)をはいて台座に立つ。聖徳太子と伝えられる一体は頭巾(ずきん)をかぶり、鬚(ひげ)をたくわえて袍衣(ほうい)と裳を着し、両腕は屈臂して、左手は経巻、右手は腰元で笏(しゃく)をいただき、沓をはき閉脚で立つ。

 伐折羅のような忿怒相、裸形の神将像は、平安時代後期以降の十二神将像および二十八部衆像にままみられる像であるが、伝聖徳太子像の形姿はきわめて特異であり、ほかには類例は確認されず、造立当初の尊名を明らかにすることはできない。ただし、頭巾をかぶり、鬚(ひげ)をたくわえ右手に経巻を執る姿は、二十八部衆中の婆藪仙人(ばすうせんにん)の姿に近い。

 彫成の技法は、両像とも檜の一材を丸彫りしたもので、着衣に刻まれた簡素な衣文、剥落のすすんでいる彩色の状況など、その手慣れた作風は二像ともに共通している。製作年代は室町時代と推定されるが、この時代になると、十二神将、二十八部衆の造像はかなり多様化されてくる。

 なおこの二像は、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のさいに、戸隠の宝光院(現戸隠神社宝光社)から本寺へ移安されたものと伝えられている。現在の戸隠神社宝光社には、神仏習合の時代に祀られていた二十八部衆の残闕(ざんけつ)が残されている。本寺の十二神将、聖徳太子の二像は、その材質や大きさ、作風などがその残闕像とたいへん近似している点からみると、この両像は、かつての宝光院に祀られていた二十八部衆の残闕であった可能性が高い。


写真29 木造伐折羅大将立像(左)・伝聖徳太子立像(右)
大本願提供