太刀

1090 ~ 1091

重文 一四世紀後半(南北朝時代) 松代町松代 真田宝物館蔵

鎬造(しのぎづくり) 丸棟 鍛(きた)え杢目(もくめ)肌 刃文(はもん)広直刃(すぐは) 鋒伸びる 茎生ぶ 目釘穴 二 鑢目(やすりめ)大筋違い 銘「備中(びっちゅう)國住人□□ 延文六年二月日」 刀身一〇三・二センチメートル、反り三・〇センチメートル

 この太刀(たち)は真田源太左衛門尉(げんたざえもんのじょう)信綱が用いたと伝えられる。信綱は武田勝頼の武将真田弾正忠(だんじょうのちゅう)幸隆の長子で、上田城主真田安房守昌幸(あわのかみまさゆき)の兄、真田幸村の伯父にあたる。天正三年(一五七五)の長篠(ながしの)の合戦のさいに、この太刀を振り武勲をたて、弟兵部丞(ひょうぶのじょう)昌輝とともに戦死したという記録が残されている。物打ちのあたりに大きな刃こぼれが認められるが、それはそのときの刀傷と伝えられている。

 銘文にあるように、備中国(岡山県)青江派の大太刀(おおだち)で、南北朝時代に流行した三尺余の豪壮な打ちものである。反りはやや浅く鋒が伸びる。鍛えは杢目に地沸(じにえ)がよくつき乱れ移りが立つ。刃文は広直刃しまり、総体に逆足(さかあし)が入る。彫り物は棒樋(ぼうひ)に添樋(そえび)を彫り角留とする。