重文 一三世紀 元善町 善光寺本坊大勧進蔵
紙本墨書 巻子(かんす)装 本紙一八継ぎ 背紙『維摩詰経(ゆいまきっきょう)』写経 縦二六・五センチメートル、幅八六八・七センチメートル 銘記(巻末)「□永元年梅月日実朝抛(ほう)筆」
筆者が「富士山麓(さんろく)に露のやどりして、物の噂(うわさ)をせしときに、仏前の巻経の裏につれづれなるままに書きしるし」と記しているように、標題の『源氏物語事書(ことがき)』は、どのような意図にもとづいて書かれたのか明確ではない。
書体は流麗な草書体の仮名散らし書きで、『維摩詰経』の写経の背紙に墨書されている。その内容は、『源氏物語』の著作の成立過程にふれ、巻数、巻名の由来、作者紫式部のことなどについて書いている。とくに注目されるのは『源氏物語』六〇巻説で、天台仏教思想を根底にした記述がみられることである。具体的には一条天皇の中宮上乗門院に、物語の執筆を命じられた紫式部は石山寺(滋賀県大津市)にこもり、『源氏物語』を執筆したが、五四帖(じょう)のほかに書いた六帖は、内裏(だいり)の宝蔵に秘められ、世に出ないなどと述べられている。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけ、『源氏物語』は写本により、自由に書きあらためられ「さくらひと」「さむしろ」「すもり」などの巻々が新たにつくりだされた時代である。本巻は『源氏物語』と、天台仏教思想の因縁をこんにちに伝える史料として興味深い。
巻末にしるされる年紀については、最初の一文字が判読できず、寿永(じゅえい)元年(一一八二)・建永(けんえい)元年(一二〇六)・貞永(じょうえい)元年(一二三二)・文永(ぶんえい)元年(一二六四)の四つが考えられる。いずれかの梅月、つまり陰暦の五月に執筆されたことがわかる。そのなかで寿永元年は、書風からおして無理があるが、他の三例については後考に待ちたい。また「名は鎌倉辺の主ともいうべし」と記されている実朝は、いかなる人物であるのか不詳である。いずれにしても本巻の流麗な仮名散らし文は、鎌倉時代初期にさかのぼる貴重な遺墨(いぼく)といえよう。