無数の造塔-五輪塔・宝篋印塔-

1098 ~ 1101

数量がもっとも多く、よく見かけるのが五輪塔と宝篋印塔である。五輪塔は、仏教でいう宇宙の構成要素を意味する空・風・火・水・地の五輪の造型からなり、それぞれ宝珠(ほうじゅ)・半円球・三角・円・方形で表現される。平安時代末期に登場し、輪(りん)というように地輪を除いたすべてが曲線で構成されているため、石材での造型には相当な技量が要求されたであろう。五石組み合わせはまれで、空風一石の四石が一般的であり、火水地・空風の二石組み合わせや一石からすべてを削りだしたものもある。市域では善光寺とその周辺に数千の五輪塔があり、その他の地区にも群集地があって広範に分布している。

 五輪塔は、宝篋印塔と同じく構造上複数の部材からできており、かつ墓地や霊場に群集していることが多いため、ほぼすべてが崩壊と積み直しを繰りかえし現在にいたっている。したがって、ほとんどは他の塔の部材と入れかわってしまい、元の姿がわからなくなっている。しかし、こうした悪条件のなか、川中島町今井の五輪塔と松代町大室(おおむろ)の禅福寺の塔が良好な状態の作例として残っている。

 今井の五輪塔は今井神社の西側にあり、裾花凝灰岩(すそばなぎょうかいがん)とよばれる長野盆地西域一帯で産出する黄褐色の石材で、水輪は円形の張りがあって鎌倉時代の様式に近い。伝承では木曾義仲家臣今井兼平(かねひら)の供養塔といわれている。大室の禅福寺塔は、同寺を天文(てんぶん)三年(一五三四)に開いた大室城主で法名を太然伯珎(たいねんそうちん)と号した人の墓塔と伝えている。柴石(しばいし)とよばれる松代町金井山産の溶結(ようけつ)凝灰岩製で総高一二三センチメートル、水輪は楕円で火輪の軒は極端に厚く表現されており、様式は室町時代末、伝承の人物のころとみてよさそうである。


写真35 伝今井兼平供養塔
(川中島町今井)

 市域の中世石造物の石材分布は、およそ鎌倉時代以前のものはやわらかく加工しやすい裾花凝灰岩が各地で使われ、室町時代以降は犀川(さいがわ)以北では安山岩(西長野郷路(ごうろ)山、若槻髻(もとどり)山、芋井貉郷路(むじなごうろ)山などに露頭があるが石材産出地は末特定)、以南では柴石系統の石材が主に用いられている。五輪塔でもっとも多いのは安山岩製のものであるが、残念なことに完形塔が確認されていない。

 宝篋印塔も広くみられる塔形であるが、五輪塔と比較すれば数量は一割に満たないであろう。塔内に宝篋印陀羅尼(だらに)という経典を納めたことからその名があり、直方体を階段状に積層する直線的な塔形である。基本的には下から基壇(きだん)・基礎・塔身(とうしん)・笠(かさ)・相輪(そうりん)の各部からなり、笠に付く耳飾状突起や、塔の表面にほどこされた装飾模様などに年代的・地域的な特徴があらわれることが多い。平安時代からあるが石塔は鎌倉時代中期にはじめてあらわれる。市域では若穂川田塚本の王子塚塔(口絵参照)、七二会(なにあい)大安寺の雷峰妙林寿塔(らいほうみゅりんじゅとう)、善光寺の兄弟塚の二塔(三件はいずれも市指定文化財)がほぼ完形を保つ作例として残っている。

 塚本の王子塚塔は円墳の王子塚古墳上に建ち、安山岩製で現高一五四センチメートル、市域の宝篋印塔では大型に属する。笠・塔身・基礎が中空に刳(く)りぬかれたたぐいまれな構造らしく、塔身四面に地蔵菩薩坐像を透彫(すかしぼり)し、笠部下段(げだん)を請花(うけばな)とする様式もまた珍しい。基壇に銘があり今は磨滅して判読困難であるが、かつて永和(えいわ)(一三七五~七九、天授(てんじゅ)元~五年)の年号が読めたといい、特異な様式ながら南北朝時代の作とみられる。大安寺塔は安山岩製で基礎の銘文から同寺開山の雷峰妙林の寿塔(生前の供養塔)として永和二年(一三七六)に造立(ぞうりゅう)されたことがわかる。笠の隅飾(そうしょく)が低くずんぐりしており、これは北信地域のこの時期以降の宝篋印塔に特徴的な表現である。兄弟塚の二塔はかつて南北に並立して南塔・北塔とよばれていたが、現在は東西に並置されている。なおこの両塔は塔身四面に花頭窓(かとうまど)の装飾があるが、このような表現は他に愛知県に一例知られるのみであるという。この塔に倣(なら)ったと考えられる花頭窓装飾が、善光寺や周辺地域の近世初頭の宝篋印塔によく見うけられ、地域的な特徴のひとつになっている。ほかにも本塔は、基礎・基壇の輪郭を木造建築の基壇のように刻みだすなど個性的な表現が目立っている。西塔(もと北塔)に応永(おうえい)四年(一三九七)の逆修銘(ぎゃくしゅめい)と交名(きょうみょう)があり、二十数人の結衆(けっしゅ)が生前に自分の菩提を弔う目的で造塔した逆修供養塔である。