板碑(いたび)は、頭部を三角形に整形した板状の一枚石の正面に、信仰対象の主尊や造塔趣旨、供養者、紀年銘などを刻んだ石塔である。一石でつくられることから、簡易な塔形として鎌倉時代から全国的に普及した。
長野県は武蔵型板碑の分布の西限とされている。武蔵型は埼玉県秩父(ちちぶ)産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)でつくられ、青緑色の薄い板石に精緻(せいち)な彫りで仏の象徴を梵字(ぼんじ)であらわした種子(しゅじ)や銘文を刻んだ塔婆であり、全県で約一三〇基が確認されている。善光寺平への伝播(でんぱ)については、容易に持ち運びができることもあって確実に中世当時から伝来したものか確証がなかったが、平成六年(一九九四)に中野市の清水山遺跡で一四世紀の墓地から立てられた姿のままの板碑が出土し、当時から善光寺平へ波及していたことが確かめられたため、長野市域の遺例も武蔵型分布の一環に位置づけることが可能となった。
市域現存のものは、出土例六基のほか、屋内に伝来したもの三基、このほか近代に他県から移入したもの一基の計一〇基が確認される。ほかに記録だけのものが数基ある。年代は弘安(こうあん)二年(一二七九)銘の善光寺最勝院板碑が記録だけ残るが、現存では中御所観音寺の嘉暦(かりゃく)元年(一三二六)銘(口絵参照)があり、他の無銘のものはほぼ南北朝時代のものとみられる。出土のうち四基は、昭和七年(一九三二)に善光寺北方の箱清水花岡平で発見され、うち三基が武蔵型としては異例の小ささで、しかも中御所観音寺に伝来したものとほぼ同形であったことが注目された。嘉暦元年銘の観音寺板碑は、主尊は阿弥陀一尊種子で、種子や紀年銘・枠線に金泥がほどこされている。規模は総高二三センチメートル、最大幅七・五センチメートルの極小型で、全国最小とされる埼玉県行田市川鍋氏蔵の永仁(えいにん)元年(一二九三)銘(総高二二センチメートル、最大幅九センチメートル)にわずか一センチメートルおよばないものの、枘(ほぞ)を除く塔身と幅で比較すると観音寺のほうがひとまわり小さく全国最小といえる。花岡平出土例も阿弥陀一尊種子で全長約二五センチメートル、幅七・五センチメートルほどであり、銘は嘉暦三年四月と七月で、あと一基は無銘であった。残念ながら花岡平の四基はその後行方不明となり現存していない。
小型である理由は運搬の利便性が第一と思われるが、石材と成型の様式は武蔵型のそれであることから、すでに生産地の段階で成型が完了していたとみるべきであり、当地の需要に応じて製作された特注品の可能性もある。この一群に昭和戦前に注目した栗岩英治は、「位牌(いはい)式」もしくは「善光寺式板碑」と命名したが、武蔵型板碑分布の縁辺におけるひとつのありかたとして重要な遺例といえよう。このほか、篠ノ井二ッ柳中条の民家敷地で板碑断片が出土した。また年代は不詳だが、西長野往生寺でも一四世紀後半と思われる阿弥陀一尊種子板碑が出土している。いずれも造立趣旨や供養者銘がないのが特徴的である。