安山岩製板碑-善光寺平型の登場-

1102 ~ 1105

武蔵型にたいして、地元の石材で製作された在地の板碑(仮に善光寺平型とよぶ)は近年まで存在すら明らかでなかったが、現在では市域に約二〇〇基が確認され、武蔵型をしのぐ板碑の造立がおこなわれていたことが判明した。石材は安山岩製で、応永十五年(一四〇八)の後町十念寺の六字名号(ろくじみょうごう)(南無阿弥陀仏)板碑を初現とし、ちょうど武蔵型の造立年代をうけた格好になる。下限は天文(てんぶん)二十二年(一五五三)である。分布は善光寺を中心に犀川以北に集中する傾向が顕著であり、犀川以南と千曲川右岸にはほとんどみられない。形態は石材に制約されてか幅にたいする厚さが二対一ほどになり、武蔵型のように上面に直接埋めこむのではなく台石上に据えるのが一般的である。碑面の表現上では、武蔵型を踏襲した芹田南市仏導寺の弥陀一尊種子のような例もあるが、おおかたは頭部の二条線が省略され、正面の枠線内を長方形に一段彫り窪(くぼ)めて主尊や銘をあらわす。一見、ありふれた近世の墓石と判別がつきにくいが、大きな相違点は、近世墓碑が正面以外は荒彫りのままであるのにたいし、善光寺平型板碑は側面・背面とも平滑に整形する点にある。

 一五世紀代の作例には前記の十念寺のほかに、元善町福生院(ふくしょういん)の永享(えいきょう)十一年(一四三九)、善光寺院坊墓地の文明(ぶんめい)十七年(一四八五)、古牧平林宝樹院飽田家墓地の延徳(えんとく)三年(一四九一)のいずれも六字名号板碑がある。十念寺板碑は上部を欠損し現存高六八センチメートル、幅四三センチメートル、厚さ一八センチメートルで、完型ならば一五〇センチメートルはあったであろうと推定される。最近の調査で「応永十五年 為十阿上人之(じゅうあしょうにんのため) 黄鐘(こうしょう) (十一月)吉日諸衆敬白」銘が確認され、上人と敬称された高僧十阿のために、弟子・結縁(けちえん)衆らが造立したものとみられる。十念寺は現在浄土宗であるが、南北朝時代には一向(いっこう)衆(時衆一向派)に属したらしく、応永七年の大塔合戦の折には善光寺妻戸(つまど)時衆とともに「十念寺ノ聖(ひじり)」が戦死者の埋葬や供養をした(『大塔物語』)。板碑の造立は合戦から八年後であり、六字名号や阿号、上人号は一向衆や時衆でよく用いられることから、まさに大塔合戦に登場する聖たちによる造塔と考えられよう。福生院板碑は同院境内からの出土であり、上部欠損で現高四八センチメートル、名号は草書体の独特なもので、時衆の遊行(ゆぎょう)上人筆と伝える書体に類例があるが板碑には例がまれである。造立趣旨は「一夏念仏供養」のためとあり、夏安居(げあんご)(仏教で四月十六日から七月十五日まで一所に籠り修行に専念する期間)に念仏行をおこなった結願(けちがん)供養であろうか。これもまた他に類を見ない。


写真36 福生院板碑
永享11年(1439)銘 (元善町)

 善光寺院坊墓地の文明十七年板碑からは、銘は主尊・年紀と供養者法名だけとなり、趣旨はほとんど明記されない。さらに一六世紀初頭になると、台石と塔身を一体化した総高四五センチメートルほどの定型的な量産品が登場し、たちまち普及するようになる。主尊も名号をはじめ、古牧北条春原家の永正(えいしょう)十二年(一五一五)板碑のような阿弥陀一尊や三尊、五大、金剛界五仏などの種子のほか、五輪を刻出したうえに地蔵像を半肉彫にしたもの(芹田南市南市神社)など多様になり、五輪塔の形を浮彫や線彫で碑面にあらわすものの割合が多くなる。同じころ五輪塔に一石や二石の小型で簡素な量産品が出現するが、さらに簡易な造型を板碑に求めていたのであろう。このような様相は、個人の需要による造塔へと変化していったことを示すと考えられ、その多くは墓碑として造立されたと考えられる。


写真37 春原家板碑 (古牧北条)

 ところで、善光寺平型板碑が天文二十二年を境に消滅してしまうのは、武田・上杉両氏の北信侵入と時を同じくしておりたいへん示唆的である。善光寺平で一六世紀後半の遺例がそれまでに比べ極端に少ないことは、五輪塔・宝篋印塔など他の石造物にも同じことがいえる。甲越戦争が、長野市域の住民の葬送供養のありかたにも大きな影を落としたことがうかがえよう。なお、善光寺平型板碑の存在が知られるようになったのはごく最近のことであり、ここ数年で作例も飛躍的に確認されつつある。今後の所在調査の進展によりさらに実態が明らかになるであろう。