その他の石造物-多層塔・石幢・石仏-

1105 ~ 1107

多層塔は、塔身と屋根部分が重層的に造型されたもので多重塔ともいわれ、木造塔にも共通するもっとも基本的な塔婆として奈良時代から作例がある。市域では、篠ノ井二ッ柳方田(ほうだ)の多層塔(市指定文化財)と北石堂町西光寺の多層塔が知られる。方田塔は現状二層であるがもと三層であったと考えられる。裾花凝灰岩製で現高一二八センチメートル、塔身が高いうえに軒の出が大きく全体におおらかで、降棟(くだりむね)をつくりだす表現に延暦(えんりゃく)二十年(八〇一)の山上三層塔(群馬県勢多郡新里(にいざと)村、重要文化財)との共通点があり、平安時代の作例と考えられているが異説もある。西光寺塔も裾花凝灰岩製で、破損がいちじるしく原形は不明であるが五層以上であったらしく、初層軸(じく)部の丈が高く軒反(ぞり)もゆるやかで古態を示し、鎌倉後期にくだるものではない。

 石幢(せきどう)は、仏前に奉献する幢幡(どうばん)(はたほこ)をかたどったもので、四角・六角・八角などの多面柱に仏菩薩を彫刻したものが多い。市域には唯一、松代町東条竹原の通称笠仏(市指定文化財、口絵参照)がある。後補の基礎を除く現高一五〇センチメートルの四面幢で、各面に大ぶりな顕教四仏(しぶつ)(阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか)・薬師(やくし)・弥勒(みろく))坐像を浮彫する。鎌倉時代初頭に成立した『餓鬼草子(がきぞうし)』には、これとよく似た四面幢が供養されているようすが描かれている。今は畑のなかに単独で立っているが、ここは、もとは一二世紀に存在が確認できる天台宗の大刹(たいさつ)清滝寺(今の清滝観音堂)の参道にあたる場所とみられる。江戸時代初期に松代藩主真田信之(のぶゆき)が庭園の景物としたところ病を得、夢告により元にもどしたという逸話がある。堂々たる作風から鎌倉時代初期が下限の作とみられる。

 石仏はその名のとおり石づくりの仏像で、独立のものと岩壁に刻まれた磨崖仏(まがいぶつ)に大別される。また彫刻手法によっても、像を背中まで整形した丸彫から、側面がみえる程度の半肉彫、薄く彫りだされた浮彫などがある。

 市域では、篠ノ井布施高田地蔵堂の地蔵菩薩坐像と薬師如来坐像がそれぞれ室町時代初期と後期に比定され、市の指定文化財になっている。このうち薬師如来は、更埴市森の岡地薬師堂石造薬師如来像との相似(そうじ)が指摘されており、作者の関連が注目される。また相似という点では、松代町清野の大村観音堂の阿弥陀如来坐像は、南北朝時代とされる埴科郡坂城町満泉寺の本尊釈迦如来坐像(県宝)と様式・寸法までほとんど一致することが近年判明した。清野は坂城村上氏の有力支族清野氏の本拠であることから、こうした兄弟像が生まれた背景には両氏の造像への直接的な関与が想定され、注目すべき作例といえよう。このほか、永享五年(一四三三)上野(こうずけ)国群馬郡府中(前橋市)住人宗泉の銘をもつ高さ三〇センチメートルほどの阿弥陀如来坐像と十一面観音坐像が、それぞれ松代町柴の吉池氏(もと柴阿弥陀堂といい、親鸞(しんらん)自筆と伝える名号を本尊とする在家寺院であった)と芋井鑪(たたら)の地蔵寺にある。台座の二重蓮弁文(れんべんもん)が応永・永享期の上野府中周辺の石仏と同様式であること、願主の宗泉が居住地をわざわざ国名から記していることなどから、これらの像は後世の移入ではなく、造立当時に上野府中から善光寺平に運ばれてきたと考えられる。目的としては、六十六部聖(ひじり)のような回国聖が上野から善光寺・戸隠への巡礼ルートでおこなった造仏事業とも考えられる。ほかにも一連の石仏が現存しているかもふくめ今後の調査課題になっている。


写真38 石造阿弥陀如来坐像
(松代町清野 大村観音堂)

 中世石造物には、このほかに磨崖仏、宝塔、多宝塔、石祠(せきし)、石龕(せきがん)、無縫塔などがあるが、長野市域では多宝塔の部材がわずかに点在するほか、まだ見つかっていない。