花岡平石塔群の調査

1107 ~ 1109

善光寺の周辺に中世石造物が多いことについては、「西の高野山、東の善光寺」ともいわれ早くから有名である。和歌山県の高野山は中世以来の納骨供養塔が林立し、全国的な霊場として有名であるが、善光寺もまた生身(しょうじん)の如来のもとに死者の霊がとどまり、浄土へ導かれる場として霊場視されたことが文献からうかがえる。その史実を証明するものとして善光寺裏山の箱清水花岡平(はなおかだいら)に群在する五輪塔がたびたび取り上げられてきた。今回の長野市誌編さんにあたっては、この花岡平石造物群とその周辺地域、さらに善光寺境内の石造物の調査を平成六年から三ヵ年にわたっておこない、この石造物群の実態と全容の把握につとめた。

 花岡平は善光寺の北方大峰山(おおみねやま)中腹にある緩傾斜地で、比高差は一二〇メートルほどの高みにある。最大の石塔群は、花岡平霊山寺(れいさんじ)駐車場西側の斜面に階段状に並んでいるものだが、当初からの景観ではなく変遷をたどってきたことがわかった。

 この地を一名五輪平(ごりんだいら)ということは、すでに明治初年の「長野町誌」(『長野県町村誌』)に「今尚(なお)土を穿(うが)つに五輪の残闕(ざんけつ)多く出るを以て俗に五輪平と称す」とある。その後大正九年(一九二〇)に霊山寺(れいさんじ)が建立され、境内の整備がすすむにつれたびたび出土し、昭和七年(一九三二)に南辺を遊覧道路として開削したさいには多量の石塔・骨壷(こつつぼ)などが出土し、遊覧道路竣工(しゅんこう)後には五輪塔が現駐車場の平坦地に整然と並べられた。昭和十年に『善光寺史』を著した坂井衡平(こうへい)は、出土品とあわせて周辺の石塔群の分布状況を調査し、露出のもの数千、いまだ埋没のもの数万にのぼるであろうと推定している。昭和四十七年には霊山寺東側墓地団地造成時に三七七点の五輪部材の出土が報告され、昭和五十四年の善光寺大本願火災のあとの復興工事にあたり出土した石塔も花岡平にもちこまれたという。つまり、現在の群在状況は花岡平一帯からの出土に加え、善光寺からの出土品も混入した集積場としての景観だったのである。そこで調査はおのずから全体数と銘文(めいぶん)の把握および一部の計測にとどまることになった。


写真39 花岡平五輪塔群 (箱清水)

 調査の結果、確認された石塔の種類と数量は表1のとおりである。五輪塔が全体の九八パーセントを占め、最多部位の火輪から一〇七三基を数えることができる。水・地輪が少ないのは傾斜地でいまだ埋没しているためであろう。石材は凝灰岩がごくわずかあるほかほとんど安山岩製であり、規模は宝篋印塔の塔身に推定一メートルをこえるものがあったが、他はすべて六〇センチメートルから一メートル以内に収まると想定される。地輪や水輪には上部を窪(くぼ)ませたものがあり、火葬骨や奉納品を塔内に納入する形態が想定される。


表1 花岡平石造物の種類別数量

 銘文をもつものはきわめて少なく、五輪塔の地輪はただ一点、文明十九年(一四八七)があり、他に二石五輪塔に永正(えいしょう)十九年(一四八七)と天文十年(一五四一)があった。永正のものは法名東一という者の逆修塔である。三三八点もの地輪に在銘一点というのは、どういう理由が考えられるのだろうか。一般的に小型の五輪塔には銘は刻まれていない。繊細な刻銘の技術は塔を成型するより困難で、小さな五輪塔一基を造立するのがやっとの庶民にとっては、銘をいれるまでは望むべくもなかったのであろうか。しかし、次項でみるようにかならずしも刻んでないから銘がないとはいいきれないのである。