花岡平につづき、分布の広がりを調べるため、西長野腰の西光寺、箱清水の共有墓地、善光寺境内の院坊墓地などで主に数量確認調査をおこなった(表2)。西光寺は善光寺の真西にあたり、裏山一帯は地名を往生地(おうじょうじ)という。今も火葬骨をともなって多量の五輪塔が出土しており、善光寺をとりまく中世墓地遺跡群のひとつとみてよいだろう。善光寺境内院坊墓地にある石塔は、現境内や中世の境内である元善町、さらには大門町など周辺一帯からの出土品を寄せ集めたものである(小林済『善光寺之碑文集』)。花岡平や西光寺のものに比べひとまわり大きい部材が目につき、年号は応永二十一年(一四一四)から天文八年までのものが、五輪塔七基、板碑が三基ある。花岡平や腰のみならず、境内地にも多数の石塔が建立され、埋没していたことが判明した。
そうした最中、平成七年(一九九五)一月に大門町の共同溝埋設事業、ついで大門町の東西を走る国道四〇六号拡幅工事にともない多量の石造物が発掘された。出土品は長野市埋蔵文化財センターにおいて整理途中であるため詳細はその本報告を待ちたいが、共同溝工事範囲の中央通り両側歩道幅部分のうち、西側だけで約三七〇点の部材が発見され、そのうち七割の二六六点が五輪塔の地輪および宝篋印塔の基礎であった。地輪をうける台石もあり、方形の奉籠孔(ほうろうこう)を穿(うが)った例もある。
刻銘のあるものの比率は高く、年号は永徳三年(一三八三)から天文十二年(一五四三)が現在までに確認されている。なかには刻字に漆を下地として金箔(きんぱく)を貼(は)ったものや朱をさしたものもあった。さらに注目されたのが墨書銘(ぼくしょめい)の多いことである。本尊種子の梵字や年紀、造立趣旨といった後世に伝えるべき内容を、風雨により抹消されるのを覚悟で墨でしたためていたのである。そうしてみると、本尊や銘を刻むべき形態の在地型板碑にも刻字がないものが少なからず存在するが、これも墨書種子の例が出土し、通例的に広くおこなわれていたのであろう。
これらの石塔は近世善光寺門前町の町屋建設にあたって建設石材として転用されたとみられ、ほとんどが地輪や宝篋印塔の塔身など四角い部材であった。現代につづく善光寺門前の町並みは、まさしく「中世の礎(いしずえ)」の上に建っているのである。