石塔の立つ風景

1112 ~ 1113

では、これらの埋没した石塔は、当時はどこに立っていたのであろうか。中世末期の善光寺の景観を復元的に描写したとされる善光寺参詣曼荼羅(さんけいまんだら)(大阪府藤井寺市小山善光寺蔵)には、画面のいたるところに五輪塔が描かれている。とくに右上の丘にある堂宇の周囲や、築地塀で囲まれた境内地の堂塔のあいだに不規則に立っているようすがみてとれる。


写真40 善光寺参詣曼荼羅(部分)
(大阪府藤井寺市小山善光寺蔵)長野市立博物館提供

 中世の寺院では、基本的に境内地は清浄な場として墓所や供養塔は設けられなかった。参詣曼荼羅は寺院への参詣を勧誘する目的でつくられたから、とくに境内や墓所などの区別を鮮明に表現するため、無造作に墓塔や供養塔を境内に描くようなことはありえない。当時から善光寺は通常の寺院とは異なり、境内地にも供養の石塔が立ち並ぶ景観が一般的であったと認識されていたといえよう。そのことを強く印象づけるのが境内左上に描かれた堂の存在である。ここに五輪塔を抱えあげ、僧侶の待つ堂内へ運びいれようとする男が描かれており、今まさに造塔供養がおこなわれようとする場面がみられる。このことが参詣曼荼羅に描かれているということは、善光寺が参詣者の造塔を推奨し、境内に供養の場を開放していたことを示すものと考えられる。

 鎌倉時代の『沙石集(しゃせきしゅう)』には、鎌倉に住むある人の娘の遺骨を父母が善光寺に送ろうと箱にいれておいたという話がある。善光寺に供養の場を設けたいという人びとの願望が、無数の石塔となって善光寺境内や花岡平、西長野の山腹をおおっていたのであろう。

 ところで、なぜこれらの石塔が破棄され、いっせいに地中に埋没してしまったのだろうか。善光寺は甲越戦争に端を発した本尊不在の期間をへて、近世に豊臣・徳川といった為政者の庇護(ひご)により再生し、門前町も宿駅としての建設整備がなされたが、そうした過程で多くの石塔は、信仰の対象から建築資材へと転用された。そのことを主体的に実行したのが善光寺であったのか、為政者の命によるものであったのかは定かでないが、重大な意識変革をともなったことは確かであろう。

 ちなみに、近世初期の境内図では、石塔供養の堂宇のあった境内北西の場所は骨堂と墓地が占める一角となっており、参詣者の納骨・供養の場として存続しつづけた。元禄(げんろく)五年(一六九二)に始まる現本堂の再建にあたり現境内に移転したさいも、北西隅(今の忠霊殿の場所)に骨堂と墓地が設置され、その役割は現在の雲上殿(信徒納骨堂)に連綿と受け継がれている。