城とその時代

1114 ~ 1116

「城」、このことばから石垣と水をたたえる堀、そして天守閣が建つ近世の城をイメージしがちである。ところが名古屋城・松本城のような城がつくられる以前、戦乱の時代である中世には石垣の城とは異質な城が築かれていた。「土の城」とよばれる中世城郭(じょうかく)は、今でも草深い山中に残っており、土を盛った土手(土塁(どるい))、尾根筋を遮断(しゃだん)する堀切(ほりきり)、兵士などが籠(こも)る削平地(さくへいち)(曲輪(くるわ))を目にすることができる。

 鎌倉幕府が成立した一二世紀末から戦国大名が群雄割拠した一六世紀。戦乱があいついだこの中世四〇〇年間は、日常生活を営む館・屋敷に防御施設を構え、かつ居住と離れた場所に軍事的施設(山城)を築くことが一般的におこなわれた。この中世を生き抜いた民衆は、戦争と略奪(りゃくだつ)から逃げまどったが、そのいっぽうで武装して戦争に参加していた。日本列島には二万をこえる城跡が分布する。その数の多さは、中世が日本歴史上もっとも緊張状態がつづいた時代であったことを物語っている。

 古文書にはしばしば「城郭を構(かま)える」が登場する。山にたて籠(こも)るための施設(山城)は、南北朝の内乱を契機に出現した。南北朝時代の山城は、戦闘形態にそくして天険の要害(奥山)につくられ、『真如堂(しんにょどう)縁起絵巻』・『秋夜長(あきのよなが)物語絵巻』などの絵巻物によると、曲輪(とくに切岸(きりぎし))・堀切などの明確な施設をともなわない臨時的なものであったようである。


写真42 大峰城跡の堀切

 室町時代になると山城は武器の発達と戦闘形態に応じて変化し、戦争が激化した戦国時代にその構造がもっとも複雑となった。この戦国時代に戦国大名と在地の国人(こくじん)層による築城がピークを迎え、山城は集落と街道に近く地域支配に適した里山に築かれた。

 社会状況の変化、築城主体者の多様化、戦闘形態の変化などでいちじるしく多様化した戦国時代の山城は、性格的に拠点的な城郭と非拠点的な城郭とに分けることができる。前者は政治の中核をなす城で、後者には、国境警備などの役割をになう境目の城、情報伝達のための狼煙(のろし)台、戦場でつくられた陣城などがある。山という自然の要害を最大限に利用した山城は、主に戦国大名・国人層がいざというときにたて籠る詰城(つめじろ)および軍事拠点として、また拠点的城郭とそのまわりに住む民衆を守るために築かれた。後者には、拠点的城郭のまわりにつくられた城郭群が、ネットワークを形成するものもある。


写真41 旭山城跡の主郭

 いっぽう、日常的な生活を営む館(やかた)(居館)は、地域支配の拠点で政治・経済・文化の中核となっていた。館は一辺が一町(約一〇九メートル)および半町の規模をもつ。『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』などの絵巻物によると、鎌倉時代の武士の館は周囲に堀・板塀(いたべい)・土塁をめぐらして櫓門(やぐらもん)を構えた形態であった。館は中世社会の変革に応じて形態が変化し、室町時代に堀と土塁がセットとなり、もっとも防御(ぼうぎょ)的機能が強化された「方形館」が出現することとなる。

 中世の城には、出現した南北朝時代と、構造上もっとも多様化した戦国時代の二つの画期があった。南北朝時代から室町時代は山城と館がおのおの独自に発展したが、発展過程でしだいに融合し、戦国時代になると館(本拠(ほんきょ))が山麓(さんろく)に移動し里山の山城と一体化することで結びつきをみせた。これが根小屋(ねごや)式城郭であり、中世城郭がもっとも発達した姿である。城郭は織豊(しょくほう)期(織田・豊臣政権期)にさらに複雑となり、幕藩体制下の江戸時代に近世城郭として完成することとなる。