千曲川と犀川が流入する長野盆地を取り巻く山々には、尾根の頂部および先端に数多くの山城が点在している。長野市域で約七〇ヵ所が確認されており、大半が戦国時代以降に戦国大名の武田氏・上杉氏もしくは在地の国人層によって築城・改修された城である。山城のふもとに居住空間であるいわゆる「根小屋」の存在を想定し、山城と根小屋が一体化した形態(根小屋式城郭)を考えることが多い。ところが、市域ではふもとに屋敷地名または屋敷伝承が確認されない山城が多い。このことは、ふもとではなく山上に恒常的な居住機能をもった城、もしくは居住空間(館)とかなり離れた場所につくられた城もあったことを示していよう。
これらの城には、分布の地域的なまとまりがみられる。千曲川左岸では、旭山城・葛山(かつらやま)城・大峰城など善光寺を取り巻く山城と、髻山(もとどりやま)城・若槻(わかつき)山城など豊野町・牟礼村と接する長野市北部の山城がある。両地域には、武田氏と上杉氏が北信濃の支配をめぐって対立する緊張の高まりのなかで築城されたものがあり、善光寺周辺には長野市内でもっとも規模の大きい山城が分布する特徴がある。善光寺平を支配するうえで重要な拠点である善光寺を手中に収めるため、両軍が一触即発(いっしょくそくはつ)の緊張状態であったことがうかがえる。また、長野市西部の犀川流域には小田切の吉窪(よしくぼ)城など小規模な山城が分布し、篠ノ井塩崎・石川地域には塩崎城・赤沢城(塩崎新城)・二ツ柳城など、この地で繰りひろげられた大塔(おおとう)合戦との関係が深い山城が分布している。
いっぽう、千曲川右岸の更埴地域には、唐崎山城・天城(てしろ)城などの鞍骨(くらほね)城を中核とした城郭群があり、塩崎城と対峙(たいじ)する姿を示している。また、雨飾(あまかざり)(尼巌)城・清滝(きよたき)城・寺尾城など海津城を取り巻く松代地域の山城、さらに若穂地域には春山城・井上城など井上氏に関連した山城がある。
長野市域の城は、「市川文書」の建武三年(一三三六)に登場する清滝城のような標高一〇〇〇メートルの山頂に立地する城もあるが、六〇〇~八〇〇メートルの尾根頂部に立地し平地と比高差がかなりあるものと、標高四〇〇メートル前後の尾根先端頂部に立地し比較的平地(集落)と近接するものとに分かれる。両者は、狭小(きょうしょう)な尾根に立地し狭い曲輪(くるわ)が数多くつくられている点では共通する。規模の点では戦国大名である武田・上杉両氏が築いた山城が国人層・土豪層の城と比較して卓越(たくえつ)している。これは城の使いかた(機能)の違いにもよるが、築城技術と築城にあたる民衆の動員数に起因していると思われる。
山城につくられた施設では、堀は尾根筋を遮断する堀切のほかに、斜面に横移動を封鎖する目的でつくられた畝(うね)状の竪堀(たてぼり)(連続竪堀)がみられる城がある。武器の発達と戦争の激化により強化された防御(ぼうぎょ)施設と考えられる。曲輪に付随する施設では、出入り口にあたる虎口(こぐち)は比較的単純な平入り虎口が多い。城郭での石材使用は、一般的に土塁および切岸(きりぎし)で土留(どど)めを目的に築く石積や、虎口構造を複雑化するために用いる石積に限られており、慶長五年(一六〇〇)ころに松代城に採用されるまでは石垣をつくる技術はみられない。