発掘された山城

1121 ~ 1128

最近、長野県では山城を発掘する機会が増えつつある。長野市域では塩崎城見山砦(みやまとりで)跡(篠ノ井塩崎)赤沢城跡(篠ノ井越)・小柴見(こしばみ)城跡(安茂里平柴)、隣接地域では屋代城跡(更埴市)・大蔵城跡(豊野町)・立ヶ花城跡(中野市)・茶臼峯(ちゃうすみね)砦跡(同)などが発掘され、考古学的資料により城郭の実態が明らかにされつつある。しかし、今のところ地域支配の拠点となった城の調査はおこなわれていない。ここでは、非拠点的城郭である塩崎城見山砦を例として、全面発掘で得られた考古資料からその姿をうかがってみることとする。


写真46 塩崎城見山砦跡
背後の山に塩崎城跡がある。 長野県立歴史館提供


写真47 発掘中の塩崎城見山砦跡
長野県立歴史館提供

 塩崎城見山砦は長野市西南部の塩崎地域にあり、ふもとの集落より約一一〇メートル高い尾根に築かれている。城は尾根頂部の中核をなす曲輪(くるわ)(主郭)、主郭のまわりと大手方向に延びる尾根筋の削平地(曲輪)、主郭背後の堀切で構成されている。尾根頂部を中心に防御施設がつくられた小規模な山城である。城跡からは、篠ノ井・稲荷山など千曲川左岸に広がる集落を一望できるばかりか、南は上田市、北は須坂市まで眺望できる。

 城跡について記した文献史料はなく、築城時期と築城主体者は明らかでない。地元には「のろし山」との伝承が残り、この伝承を裏づけるように『塩崎村史』には遺跡該当地に「見山砦」の名がみられるのみである。

 発掘で見つかった遺構についてふれると、主郭では縁辺(えんぺん)をめぐる土塁と掘立柱(ほったてばしら)建物がつくられている。土塁はかなり堅くたたいて基礎をつくり、その土に地山の凝灰(ぎょうかい)岩がまじる荒い土を盛りあげて構築している。土塁のすそには板塀(いたべい)を立てかけたと思われる溝がめぐっている。おそらく防御的な役割をかねて土塁の崩落(ほうらく)を防ぐために設けられたものと思われる。主郭の出入り口にあたる虎口(こぐち)には、四基の柱穴をもつ櫓門(やぐらもん)が土塁の盛り上げと同時に建てられている。見山砦のような小規模な山城での櫓門の存在が証明された点で興味深い遺構である。土塁で囲まれた主郭内部には、二間四方の建物と付属する二棟の建物(櫓と倉庫か)が構築されている。建物の柱穴はノミを使って掘削し、檜(ひのき)を柱材として使っていることが判明した。これら建物が西側に密集するいっぽうで、櫓門に近い東側には遺構がほとんどみられない。どうも主郭内は住空間と広場のような空間に分かれていたようである。なお、建物と土塁の近くでは戦時に使う投石(つぶて)と思われる石が散在しており、戦時に備えて武器を保持していたと想定される。


写真48 主郭虎口の櫓門跡 長野県立歴史館提供


写真49 主郭内の集石(つぶて) 長野県立歴史館提供


写真50 ノミ痕の残る掘立柱建物の柱穴 長野県立歴史館提供

 見山砦は曲輪と堀の配置からみて、鳥坂峠に面した北側を防御のかなめとしている。櫓門がある東側が正面にあたり、正面の山腹につくられた数段の曲輪には兵士などが小屋懸けしたと思われる竪穴(たてあな)状遺構が見つかっている。


図37 塩崎城見山砦 想定復原図 遺跡の北方、鳥坂峠側より望む。 (小山内玲子画)

 見山砦は、主郭を中心とした中核的な空間と兵士などが駐屯し物資などを保持した山腹の空間との、二つの機能的に異なる空間で構成されている。

 つぎに出土した遺物を見ると、土器は土坑(どこう)と主郭土塁などから、素焼きの皿(カワラケ)と能登半島で焼かれた珠洲(すず)焼の擂鉢(すりばち)が見つかった程度できわめて少ない。しかも、出土状況からこれらは見山砦以前に使われたものとみられ、見山砦存続時の煮炊きなどは山麓(さんろく)でおこなわれていたと考えられる。もっとも特徴的な遺物では二三一点出土した鉄釘(てつくぎ)がある。小規模な山城でこれほど鉄釘が見つかった事例は全国的にも珍しい。鉄釘はほぼ全域に分布し、主郭とその周囲からもっとも多く出土した。釘は二寸(六・六センチメートル)前後のものが大部分で五寸に達するものはなく、直角に折れ曲がるか、もしくは湾曲(わんきょく)する形状が特徴的である。この形状は、木材に打ちつけたのちに板などを押さえるために折り曲げたためとも考えられ、これらが建物・板塀あるいは建具のようなものに使われていたと思われる。なお、武器では火縄銃の弾丸も出土しており、軍事施設としての見山砦を物語っている。


写真51 出土した鉄釘 (長野県立歴史館蔵)

 遺構・遺物のうち、見山砦がつくられる以前のものでは、主郭近辺や土塁直下から出土した約二〇〇点におよぶ旧石器時代・縄文時代の石器をはじめ、弥生時代の土器棺墓、古墳時代の土器をともなう盛土(古墳)、山腹で見つかった縄文時代の陥(おと)し穴がある。尾根頂部の遺構は築城にさいしてほとんど削られていたが、中世以前での尾根の利用をうかがうことができる。

 中世では、山城に先行して数基の土坑(どこう)がつくられている。なかには一四世紀後半~一五世紀初頭の年代を示す摺鉢が出土したものがあり、出土状況から墓坑と考えられる。見山砦の存続期間を明らかにできるような土器は見られないが、見山砦は応永七年(一四〇〇)大塔合戦のあとの一五世紀前半以降、赤沢氏代官千田氏などが四ノ宮(篠ノ井塩崎・石川)に所領をもっていた時期に築城され、城の構造から一六世紀の戦国時代まで使われたようである。戦国時代の見山砦は、土塁・堀の存在と遺物の僅少さから、日常的な生活が営まれていない防御(軍事)的施設であったとみられる。

 長野県でも、眺望が良好で地元に狼煙(のろし)の伝承が残る戦国時代の城は、尾根頂部(主郭)に土塁がめぐる場合が多く、狼煙と土塁囲みとは密接な関係があると思われる。見山砦では主郭内の整地層上面で比較的広範囲にわたる炭の散在がみられ、北斜面の曲輪には炭と灰が埋まった土坑がある。このことから、見山砦は狼煙台として情報伝達の一役をになっていたことが想定される。

 見山砦の最終段階と関連が想定される事象として、永禄七年(一五六四)に武田氏が塩崎に布陣し上杉氏と対陣したことがある。このさい武田氏は塩崎城(自助城)に手を加え城に入った可能性が高く、眼下に望める見山砦を狼煙台(物見台)および陣城として利用したと考えることができよう。


写真52 主郭からの眺望(篠ノ井・松代・須坂方向) 長野県立歴史館提供


写真53 主郭からの眺望(塩崎・森・倉科方向) 長野県立歴史館提供


写真54 主郭からの眺望(更埴・戸倉方向) 長野県立歴史館提供