山城の発掘で明らかになったこと

1128 ~ 1128

見山砦の発掘では、主郭に掘立柱建物、虎口に櫓門(やぐらもん)がつくられ、主郭土塁には板塀、堀には逆茂木(さかもぎ)などの防御施設が構えられていたことがわかった。さらに、築城時の地山の掘削、曲輪の造成、堀の掘削などの普請(ふしん)でかなりの土量を移動していることが判明し、樹木の伐採や掘立柱建物をつくる作事(さくじ)を加えると、築城は大規模な土木工事であったことが推測される。しかし、塩崎城見山砦は善光寺平に分布する中世城郭のなかで比較的小規模な山城に属する。旭山城・葛山城のような地域支配の拠点となった山城については発掘例が皆無であるが、見山砦と旭山城とでは普請と作事にかなり差があったと思われる。見山砦で算出された仕事量(土量)から推測すると、旭山城と葛山城の築城は戦国大名(武田氏・上杉氏)が周辺の民衆を大動員した大土木工事であったことがうかがえる。