近年、長野市域の居館跡発掘例も増えて、さまざまなことが知られるようになった。たとえば中世をとおして存続する居館はなく、特定時期に出現・消滅する居館跡が多い傾向があるらしいこと、時代ごとに姿を変えていること、などである。そこで、現在知りうる居館の変遷についてみてみよう。
居館跡は中世を代表する屋敷形態のひとつであるが、どのように生まれたのかはよくわかっていない。堀・土塁といった屋敷を守る施設をもつことから戦争にかかわる武士の出現とともに生まれたとも考えられそうだが、市域の平安時代後期の遺跡で堀・土塁が見つかった例は知られていない。松代町の屋地遺跡は鉄の矢じりや馬具・短刀を多く出し、平安時代後期の初期武士に関連する遺跡と思われるが、ここでは竪穴住居跡や直接地面に柱を埋設する建物跡(掘立柱建物)のみで堀・土塁は確認されていない。鎌倉時代の遺跡も同様で、市内では堀・土塁で囲まれた屋敷跡と断定できる例はあまり知られていない。県内では鎧(よろい)の部品を出土したことからこの時期の武士屋敷跡と思われる松本市の北栗遺跡や小池遺跡があるが、ここでも堀・土塁は確認されておらず、鎌倉時代までの武士屋敷は築地塀(ついじべい)や簡単な垣根・溝で囲まれるものだったらしい。
ところが、南北朝から室町時代には、確実に堀・土塁をもつ居館跡が出現することが知られ、しかも市域で発掘された居館跡のほとんどがこの時代の所産とみられる。大きな堀で囲んだ屋敷地を中心におき、周囲にさまざまに利用される土地や施設を付属させて外堀で囲むものが知られる。この中核となる屋敷は一辺五〇メートル前後のものと一辺一〇〇メートルのものの二種類に分けられ、前者のほうが圧倒的に多い。一〇〇メートル規模の居館跡は古代条里水田にもみえる土地面積単位である約一町(約一〇九メートル)に由来するとみられるが、一町を基準として身分に応じた屋敷面積が決まっていたか、条里区画のなかから居館跡が生まれたことに由来するかは不明である。いずれにしろ、この規模の問題は居館跡出現の背景を解く鍵(かぎ)のひとつとなろう。
これらの居館跡も、室町時代後半から戦国時代まで継続しないものが多い。しかも、戦国時代の古文書にみえる武士の居館跡は位置も特定できていないものが多く、長野市域ではこの時代の居館跡のようすがよくわからなくなってしまう。
いっぽうで単独、あるいは集合する一辺三〇~四〇メートル規模の小さな堀をめぐらせた屋敷や、山城の山麓に立地する集落遺跡が出現することが知られる。前者の例には川中島町の於下(おしも)遺跡や浅川の駒沢城などがあげられるが、類似した規模の屋敷跡は中信地方で数多く認められており、数の多さからも村内の有力者、あるいは農民屋敷と考えられる。長野市域では検出例が少ないが、同様のものではなかったかと思われる。また、後者の山麓の集落遺跡の例は山城の多い千曲川右岸に数多く知られ、松代町の松原遺跡(寺尾城のふもと)、松代町大室の小滝遺跡(霞城のふもと)、若穂の北之脇遺跡・前山田遺跡(春山城のふもと)などがある。各山城は戦争のときのみ使われる城で、ふもとで検出された遺跡自体も山城と一体化してつくられていないが、いずれも室町時代後半から戦国時代前後にあらわれ、山城のふもとに立地する共通点は注目される。
なお、居館跡とは断定できないが、市内では山ぎわにいくつか武士の屋敷跡とされる場所がある。堀や土塁はみられないが、立地環境からすると山ぎわに出現する遺跡と同様のものと考えられるのかもしれない。これ以後の戦国時代後半の居館跡の様相もよくわかっていない。