つぎに発掘された居館跡から、その具体的な姿を紹介しよう。篠ノ井塩崎・石川にある石川条里遺跡は、千曲川の後背低地に立地する弥生時代以来の水田遺跡である。ここで高速道路建設にともなう発掘調査がおこなわれたところ、水田内の小さな高まりで居館跡が発見された。ここに居館跡があることはあまり知られていなかったが、明治時代の土地測量図では土地割りに館の堀の痕跡を認めることができる。
発見された居館跡は幅一〇メートルの堀(内堀)で囲まれた一辺約五〇メートル四方の屋敷地を中心に、その外側の東西一五〇メートル、南北一〇〇メートルの範囲を幅約四メートルの外堀で二重に囲む。堀は場所によって形が異なり、内堀は西・南辺側が深さ約二・五メートルのV字型に深く掘られているが、東側は深さ約一メートルの逆台形に浅く掘られている。西・南辺側か深く掘られたのは、ここが居館の正面にあたる場所で強固な防御施設が必要とされたからだろう。
中心の屋敷地内部は西・南側に広場と思われる空き地があって、その北・東側に掘立柱建物跡、南東側に井戸跡が集中して見つかった。建物跡の役割はよくわからないが、規模からみると東側の大きな建物跡が母屋で、北側の小規模な建物跡は倉庫や馬屋などにあたるのだろうか。外堀で囲まれる部分は場所によって利用のされかたが異なり、東側ではL字状の堀一本と数基の井戸跡しか見つからなかったが、南・西側は通路と思われる細い帯状の空閑地でいくつかの土地に分割され、掘立柱建物跡や井戸跡がそれぞれ見つかった。この西側にある通路は外堀東辺の土橋、西辺の堀が浅くなる部分に連続し、それぞれ外部へ連絡している。外堀の西外側では井戸跡や建物跡、鍛冶(かじ)のごみ捨て場が見つかり、館に関連する利用があったとみられた。こうしてみると、居館は内堀で囲む主人の屋敷を中心として、周囲にさまざまに利用される土地や配下の居住地を同心円状に配するものであったようである。
なお、発掘では外堀や井戸跡・建物跡の分布が居館のある地籍字「栟下(くねした)」範囲と一致することが判明し、字「栟下」自体がほんらい館跡に関連する土地であったと推測された。この範囲には水田もかなりふくまれることから、堀で囲まれた外側も関連する水田や畑が取り巻いていたらしい。
出土遺物には、中国産の青磁(せいじ)・白磁の碗(わん)・皿、石川県珠洲(すず)市付近産の珠洲焼の擂鉢(すりばち)・甕(かめ)、知多半島の常滑(とこなめ)焼の甕、釉(うわぐすり)をかけた古瀬戸の碗・皿、近在で焼かれた土鍋(どなべ)(内耳(ないじ)鍋)や擂鉢・素焼きの皿(カワラケ)、火鉢、曲物(まげもの)や漆器といった木製食器や容器、石臼(いしうす)・茶臼・硯(すずり)・銅銭などがある。このなかで館を特徴づける遺物には、茶の湯に使った燻(いぶ)し焼きの火鉢や、中国産の飲茶用の茶碗(天目(てんもく)茶碗)などの高級品がある。これ以外に素焼の安価なうつわながら、清浄さを重んじて儀式や宴会に使われるカワラケがあり、ひんぱんに儀礼や宴会がおこなわれる居館ならではの出土といえる。
この居館跡は、出土遺物から一四世紀後半から一五世紀にかけて営まれたと考えられ、折しも南北朝以後の土地争いが増加する時代に出現したようである。集落から離れた水田内に営まれていることや、居館隣接地の水田部分の発掘調査で、館出現前後に古代以来の用水路を付け替えていると想定されたことから、水田を直接支配する拠点として構築されたと予想される。先にみた南北朝から室町時代の居館の乱立も、土地支配の複雑さを背景に、より確実な土地支配が必要とされた時代性によるものと考えられよう。そして館が廃絶していくのは、争乱で武士が淘汰(とうた)されたり、支配方法が変化していくことに関連するのであろう。