題字揮毫 長野県書道協会理事・審査員
鵜野廣夫
(雅号)竹魚
天保5年(1834)信濃国絵図にみる善光寺平 長野市立博物館提供
犀川と千曲川の大河がおりなす善光寺平には、松代・上田・飯山・須坂の各藩領と塩崎知行所・善光寺領・幕府領などの町村が分布していた
松代封内図(ほうないず) 長野県立歴史館蔵
初代松代藩主真田信之の寛永5~9年(1628~32)ごろの図。次男信政、三男信重の分知村々もみられる
松代城跡(松代町松代 国史跡)
松代城は、武田信玄の築いた海津城に始まる。その後、増改築が重ねられ、名称も待城城、松城城、正徳元年(1711)に松代城と改められた
松代城二ノ丸発掘調査全景(平成7年11月現在)長野市教育委員会提供
松代城の復元等整備工事は平成7年度(1995)から始まった。その後、調査発掘がすすみ、太鼓門、北不明(きたあかず)門などの復元がおこなわれている
真田信之霊屋宝殿(松代町松代 重要文化財)長野市教育委員会提供
真田家の菩提寺長国寺にある初代藩主信之の霊廟(れいびょう)で、万治3年(1660)の建立。現在は歴代藩主の位牌も安置する
真田幸道宛徳川家綱領知状 真田宝物館蔵
4代将軍徳川家綱は、寛文4年(1664)大名・旗本・寺社に領知状をいっせいに発給し、松代3代藩主真田幸道にもあたえられた
幕府高札場(芹田栗田 水内総社日吉大神社境内)
高札場は、交通の多い四ツ辻などに建てられ、法度などを記した板札を掲げた。正徳年間(1711~16)村内に建てられ、昭和48年(1973)現在地に移された
長沼城跡(長沼穂保)
長沼城は戦国期、甲越攻防の前線基地であった。近世には森忠政・松平忠輝らの支城となり、元和2年(1616)佐久間勝之の居城となったが、4代勝茲(かつちか)の改易により廃城となった
旗本松平氏の位牌安置所天用寺(篠ノ井塩崎)
享保15年(1730)、上田藩主松平忠愛(ただざね)が弟忠容(ただやす)に更級郡川中島領1万石のうち5000石を分知し、旗本塩崎知行所が成立した
善光寺本堂と山門(元善町) 善光寺事務局提供
宝永4年(1707)に再建された善光寺本堂は長野市域唯一の国宝、寛延3年(1750)に落成した三門(山門)は重要文化財である
安政2年(1855)善光寺町絵図
長野県立歴史館蔵
善光寺町は大門町・東町・西町・後町・北ノ門町(のち新町)・岩石町・横町・桜小路(桜枝町)からなり、善光寺八町といわれた。時代が下るにつれその町続き地がひろがる
善光寺町等木綿布仲間定(『大鈴木家文書』長野市立博物館寄託)
文政2年(1819)、所領をこえた木綿株仲間152人が、木綿布の尺幅などについて取りきめをおこなった
寛政4年(1792)松代町絵図
長野県立歴史館蔵
松代町は、北国往還筋の町八町とよばれた町人町と、重臣の住む殿町をはじめとする武家町からなる
矢沢家の表門(松代町松代 長野市指定文化財)
筆頭家老矢沢家の表門で、天保年中(1830~44)の建造といわれている
元禄14年(1701)3月三登山争論裁許絵図(吉田中越 宮下忠三蔵)
水内郡の54ヵ村対吉村・袖野山村の三登山境論に下された幕府評定所裁許。表の裁許絵図に境目を墨引きし、裏に裁許状を記す
明和5年(1768)犀口三堰図(『中沢袈裟延文書』長野市立博物館寄託)
更級郡小松原村(篠ノ井小松原)で犀川から取水し、川中島平一帯を灌漑する上堰・中堰・下堰の犀口三堰図。幹線水路から枝堰まで明細に描く
慶長16年(1611)9月新町宿宛松平忠輝伝馬宿書出(若槻稲田 吉澤良一蔵)
忠輝の重臣らはこのとき更級郡丹波島村(更北丹波島)・水内郡善光寺町などにも同内容の伝馬宿書き出しをあたえ、北国往還善光寺通りを公認した
安政4年(1857)3月丹波島宿絵図(更北丹波島 柳島慎一蔵)
東西にのびた丹波島宿の北国街道両がわに旅籠屋などが立ち並び、中央に本陣や脇本陣がある。宿場のはずれに升形が見える