長野市域をふくむ北信濃で、慶長(けいちょう)三年(一五九八)に上杉景勝(かげかつ)が陸奥会津(むつあいづ)(福島県)へ移封されたのを機に、兵農分離がすすみ石高(こくだか)制が始まった。
天正(てんしょう)十年(一五八二)六月に織田信長が本能寺(ほんのうじ)で倒れたあと、信濃国は徳川・上杉・北条三氏による領地争奪の場となった。そして水内(みのち)・高井(たかい)・更級(さらしな)・埴科(はにしな)の北信濃四郡一帯は、越後春日山(かすがやま)城(新潟県上越市)に本拠を置く上杉景勝の領有するところとなった。景勝は北信濃に上杉家譜代の家臣を置かず、信濃を追われ上杉にたよった旧領主を、拠点となる支城の城代とする間接的な支配をおこなった。海津(かいづ)城(松代町)へは村上景国(かげくに)、のち須田満親(みつちか)、長沼城(長沼)へは島津忠直を置き、このほか一郷半村を支配した多くの地侍(じざむらい)に本領を安堵(あんど)するなど、大小の領主に北信濃の支配をまかせていた。
豊臣秀吉の政権は、兵農分離と石高制を柱とする近世的な支配秩序の創出を政策として推しすすめていた。天正十八年の北条討伐を機に信濃の領主の多くを他国へ移動させ、新たに豊臣大名を配置したことで兵農分離がうながされたが、北信濃は上杉景勝の支配がつづき、兵農分離が遅れた。そこで秀吉は生前最後の領主大移動の一環として、慶長三年正月、上杉景勝に越後・北信濃から会津への国替えを命じ、同時に兵農分離の命令をくだした。「家中はもちろんのこと侍(さむらい)から中間(ちゅうげん)・小者(こもの)にいたるまで、奉公人であるものは一人残らず召しつれよ、会津へ行かないものは即刻処罰する。検地帳面の百姓はいっさい召しつれていってはならない」と、地侍層の「侍」や「中間・小者」といった百姓出身の下級武家奉公人までもが会津へ移ることと、武士身分と百姓身分の分離をきびしく命じた。地侍層は、侍として去るか、百姓として残るかのきびしい選択を迫られた。
景勝の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)は慶長三年二月十日、海津・長沼城の明け渡しや家臣の引っ越し、年貢の処理など、移封(いほう)の手だてを一七項目にわたって奉行の今城次右衛門尉(じょう)と本村造酒丞(みきのじょう)に命じている。三月には、石田三成が配下の奉行衆を引きつれ、海津・長沼城の受けとりと上杉領の管轄のため北信濃に乗りこんできた。今城ら上杉方奉行衆は海津城を須田満親から、長沼城を島津忠直から受けとり、三成配下の奉行に引きわたしている。上杉の会津移封は秀吉の命令のとおり、下級武家奉公人にいたるまで一族や従者などのいっさいを引きつれた大移動となり、徹底しておこなわれた。
慶長三年三月、景勝は会津黒川城(若松城、福島県会津若松市)へ入った。これまでの出羽庄内(でわしょうない)(山形県)と佐渡国に加え、陸奥南部と出羽長井(ながい)郡(山形県)を領有することになり、約九〇万石から一二〇万石への加増であった。北信濃の大小の領主らはほとんどが会津へ移り、有力な領主層は知行高(ちぎょうだか)を加増され、陸奥や出羽国内の支城をまかされた。海津城の須田満親は移封がまだ終わらない二月に自害したといわれ、その跡を子の長義が継ぎ、陸奥伊達(だて)郡梁川(やながわ)城(福島県伊達郡梁川町)に知行二万石と同心(どうしん)分三三〇〇石をあたえられた。長沼城の島津忠直は同国岩瀬(いわせ)郡長沼城代(同県岩瀬郡長沼町)として七〇〇〇石と同心分三二〇〇石を、猿ヶ馬場(さるがばんば)城(更埴市)にいた清野長範(きよのながのり)は同国南会津郡伊南(いな)城代(同県南会津郡伊南村)として一万一〇〇〇石と同心分三二〇〇石を、牧之島城(信州新町)の芋川親正(ちかまさ)は同国西白河郡小峰城代(同県白河市)として六〇〇〇石と同心分二四〇〇石を、飯山城の岩井信能(いわいのぶよし)は同国信夫(しのぶ)郡宮代(みやしろ)城代(同県福島市)として六〇〇〇石と同心分二四八〇石を、善光寺別当(べっとう)の栗田国時は信夫郡大森城代(福島市)として八五〇〇石と同心分三二〇〇石をあたえられた。埴科郡西条(松代町)を本拠地とした西条氏は、このとき信濃に残ったものと会津に移ったものの二家に分かれた。西条弥太郎は一七〇〇石をあたえられ会津へ移っている。また葛山(かつらやま)衆(芋井)、井上衆(須坂市)、屋代衆(更埴市)とよばれた地侍の武士団も、衆としてまとまって会津へ移り、出羽米沢(よねざわ)(山形県米沢市)に三〇万石を領有した上杉重臣直江兼続の配下となり、同国長井郡内に知行をあたえられた。かれらは在地領主としての基盤である父祖伝来の地から引きはなされ、中世的な領主の性格が取りのぞかれることになった。
しかし、なかには、いったん会津へ移ったものの信濃にもどるものもいた。丹波島(たんばじま)宿(更北丹波島)の本陣をつとめた柳島太郎左衛門は、慶長三年九月十日に陸奥信夫郡下飯坂(しもいいざか)(福島市)に一〇〇石、同郡南矢之目(みなみやのめ)(同)に一〇〇石、あわせて二〇〇石の知行をあたえられている(丹波島 柳島利雄蔵)。しかし、太郎左衛門は数年して信濃にもどったとみえ、慶長十五年六月に大久保長安(ながやす)から丹波島村の欠落人(かけおちにん)を召しかえすよう命じられ、元和(げんな)四年(一六一八)五月には、ときの領主酒井忠勝の家臣らから伝馬(てんま)印判を受領している。寛永(かんえい)七年(一六三〇)には真田信之から一〇〇石の知行をあたえられ、翌年正月に水内郡窪寺(くぼでら)(安茂里)のうちに知行地がきまった。また、水内郡長沼の西巌寺(さいごんじ)も上杉にしたがって会津に移ったが、慶長三年九月に還住(げんじゅう)を願って許され、長沼に寺地を得ている。
上杉景勝は、慶長五年の関ヶ原の戦いののち三〇万石に減封(げんぽう)されて直江兼続のいた出羽米沢に移る。のち寛文(かんぶん)四年(一六六四)に上杉氏はさらに一五万石に減封された。会津へ移った信濃将士らはおおむね終始上杉氏家臣にとどまり、明治維新におよんでいる。
上杉景勝の移封によって北信濃では兵農分離が一気にすすみ、近世の幕開けを迎えた。