上杉家臣団の会津移動は慶長三年(一五九八)三月下旬に完了した。上杉の国替えと越後・北信濃の新しい領地編成は、石田三成が奉行として指揮をとってすすめた。三成はみずから越後・信濃および会津へ足を運んだ。越後には越前から豊臣大名の堀秀治(ひではる)とその与力(よりき)大名を移し、五〇〇〇石の豊臣氏蔵入地(くらいりち)(直轄地)を置いた。北信濃にはそれ以上に広範な豊臣氏の蔵入地五万五二六五石を置き、あわせて豊臣大名の田丸直昌(ただまさ)に海津城をあたえ、関一政(かずまさ)に飯山城をあたえた。関一政は四月一日付で水内郡妙証寺(みょうしょうじ)(長沼)と浄興寺(じょうこうじ)(同)に寺領安堵状を出している。したがって田丸や関は三月末には居城に入っていたと思われる。
田丸直昌と関一政は、ともに先祖代々伊勢地方に勢力をもつ在地領主であったが、秀吉の家臣となった。天正十八年、伊勢松坂(まつさか)城(三重県松阪市)から会津黒川城に移った蒲生氏郷(がもううじさと)につけられた付庸(ふよう)大名として会津へ随行していた。田丸は陸奥須賀城代(福島県須賀川市)を、関は白河城代(同県白河市)をつとめていた。秀吉は、上杉国替えと同じ慶長三年正月、蒲生氏郷の子秀行を会津から下野(しもつけ)宇都宮(栃木県宇都宮市)へ移したが、このとき田丸と関は新規の大名に取りたてられ、田丸は海津城を居城に埴科郡一円と更級・高井両郡内に四万石を、関は居城の飯山城を中心とした水内・高井両郡北部三万石を領することになった。
豊臣氏蔵入地は、田丸・関の領地や寺社領以外の更級郡北部と西部、水内郡中央部から南部、高井郡中央部の広い地域に置かれた。長野市の主要部はこれにあたる。蔵入地の代官は尾張犬山(愛知県犬山市)城主の石川備前守光吉(いしこびぜんのかみみつよし)がつとめ、海津城主の田丸や飯山城主の関も蔵入地の管理責任を負った。石川光吉は秀吉腹心の大名で、蔵入地木曽の代官として木曽山を支配したのをはじめ、豊臣政権の信濃経営に活躍していた人物である。石川は配下の磯六右衛門元直や稲川長左衛門尉(じょう)真信、馬場小大夫らを長沼城に置いていた。しかし、慶長四年に石田三成ら五奉行が関一政に蔵入地の御蔵米(おくらまい)を越後春日山城主堀秀治に貸しつけるよう指示しているから、蔵入地の実務的管理は田丸・関という隣接大名にまかされていたものと思われる。
豊臣政権は北信濃に広範な蔵入地を設置し、しかも秀吉に近い大名を配置して豊臣政権の直接支配体制をしいた。その最大の目的は、美濃から信濃へとのびていた兵糧米(ひょうろうまい)供給のルートを延長、確保することにあった。北信濃は兵站(へいたん)基地として重要な位置にあったといえる。それは、豊臣政権の兵站奉行石田三成が上杉の移封とその後の領地編成を主導したことからも明らかであるが、のちの慶長五年の東西決戦にあって、徳川家康の代官頭(だいかんがしら)大久保長安が石川光吉からこのルートを奪いとることに奔走したことからも北信濃の重要度がうかがい知れよう。このときすでに徳川家康と対抗関係にあった石田三成にとって、北信濃の兵站基地は関東の家康を牽制(けんせい)する意図をこめたものであったとみることができよう。