北信濃では、上杉移封の三年前にあたる文禄(ぶんろく)四年(一五九五)に太閤検地(たいこうけんち)がおこなわれていた。上杉領内では、直江兼続を総奉行とする越後中心の検地と、秀吉が送りこんだ増田長盛(ましたながもり)を検地奉行とする越後・信濃両国の検地が並行しておこなわれた。増田長盛による検地帳は、北信濃では九月二十九日付の「信濃国更級郡川中島内中氷鉋(なかひがの)村・下氷鉋村御検地帳」(『信史』⑱一四〇~一四七頁)があり、越後国内もあわせると一〇冊ほど残っている。
中氷鉋村・下氷鉋村(更北稲里町)の検地は、増田の手代大橋才次を竿(さお)奉行としておこなわれた。検地帳には一筆ごとに四段階に分けられた田畑の等級、田畑の縦横の長さと面積、石高(こくだか)(分米(ぶまい))、名請人(なうけにん)を記す。そして帳の末尾に田畑・屋敷の等級別の合計面積と斗代(石盛(こくもり))、分米高を記し、村全体の合計面積と分米の合計高(村高(むらだか))で結ぶ。中氷鉋・下氷鉋両村は面積にして五一町一反一畝、村高では四三七石四斗二升であった。石盛は一反につき中田(ちゅうでん)一石一斗、下田(げでん)九斗、下々田(げげでん)六斗、上畑(じょうばた)一石、中畑(ちゅうばた)八斗、下畑(げばた)六斗となっている。記された名請人は「おはた分」「寺尾分」「須田分」と分付(ぶんづけ)記載される百姓が全体の半数以上を占めている。小幡(おばた)・寺尾らは上杉景勝から知行地(ちぎょうち)をあたえられた給人で海津城つきの武士であり、須田は海津城将の須田満親である。中氷鉋・下氷鉋両村の分付記載のある土地はかれらの知行地とされていた土地であり、分付記載のないものは上杉御料所(ごりょうしょ)(直轄領)と推定される(『市誌』②二編四章参照)。
上杉領治下の北信濃では、大小の領主が知行地をもって支配していた。増田検地は形式的には太閤検地にのっとっているが、よく見ると三町歩、一町三反歩など当時ありえない広い水田がみられるなど、正確に丈量したものとはとうてい思われない。しかも更級郡のうち中氷鉋・下氷鉋両村の検地帳しか残らないごく一部の検地施行にとどまった。いっぽう、越後国内でいっせいにおこなわれた直江検地は、永楽銭(えいらくせん)で反あたりの年貢高をあらわす貫高(かんだか)制から、米の生産量であらわす石高制に変わったものの、家臣団の知行高を石高表示に変えただけのものに終わった。