森忠政の北信濃入り

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豊臣秀吉は、慶長三年(一五九八)八月十八日の死の直前、徳川家康・前田利家・上杉景勝ら五大老と石田三成・長束正家(なつかまさいえ)ら五奉行に子秀頼への誓紙をかわさせた。五大老・五奉行の合議、連帯の体制によって豊臣政権が維持されることになった。しかし秀吉が死没すると、徳川家康は覇権(はけん)確立に向けて独断専行ぶりをあらわにした。禁じられた私婚の盟約を諸大名と結び、前田利家や石田三成に非難されるなど周囲との対立を深めていった。家康の独断専行の筆頭にあげるべきものに、慶長五年二月の家康の宛行状(あてがいじょう)による北信濃四郡の領主異動がある。二月一日、家康は海津城主の田丸直昌にたいして四万石のまま美濃岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)への移封(いほう)を命じた。飯山城主の関一政も、同日家康から美濃多良(たら)(同県養老郡上石津町)への移封を命じられた。そして同じ日に美濃金山(かなやま)(同県可児(かに)郡兼山町)城主森右近忠政(うこんただまさ)七万石を北信濃へ移したのである。「信州川中島更級郡三万四七六八石三斗、同水内郡五万一〇二一石一斗七升、同埴科郡一万四六三八石七升、同高井郡三万七〇五三石四斗五升、都合一三万七五〇〇石を宛行(あてが)う、目録は別紙にあり」(『信史』⑱三八三~三八四頁)という宛行状により、森は北信濃四郡一円を領することになった。したがって、北信濃の豊臣氏蔵入地はこのとき消滅したことになる。

 大名の領知異動はかならず五大老連署の宛行状によるという誓紙を家康は無視した。予測される周囲からの非難を承知のうえ、家康は単独の署名宛行状によって豊臣大名の異動を強行し、豊臣氏の蔵入地を廃止させた。石田三成が形成した家康包囲体制をくつがえし、北信濃から豊臣勢力を一掃したのである。これは家康の戦略的布石の重要な一石にほかならなかった。この領主異動により豊臣の兵糧米供給のルートは絶たれた。しかも家康の意向によって長束正家ら三奉行が田丸直昌に川中島御蔵米(おくらまい)を森忠政へ渡すよう命じており、豊臣方に入るはずの御蔵米はすっかり徳川の兵糧米となった。石田三成は、この年七月十七日の挙兵にあたって諸大名に送った家康弾劾(だんがい)文「内府(ないふ)ちがいの条々」一三ヵ条のなかで、森の北信濃入封(にゅうほう)を非難している。また八月には、上田城主真田昌幸にあてた手紙のなかで、「森忠政には格別の遺恨(いこん)がある。北信濃の領地を奪いとるとは道理にはずれる」(『信史』⑱四四七頁)と再三にわたって記している。森の移封が発令された当時、福島正則(まさのり)ら諸大名との反目(はんもく)によって失脚し、居城の近江佐波山(おうみさわやま)(滋賀県彦根市)に蟄居していた三成が、この形勢逆転を悲憤慷慨(ひふんこうがい)したようすがうかがわれる。

 森忠政は美濃金山城主森可成(よしなり)の六男に生まれた。忠政の長兄長可(ながよし)は織田信長につかえ、武田氏討伐の軍功によって天正十年(一五八二)三月に、新たに北信濃四郡をあたえられたが、六月十九日の本能寺の変で北信濃の土豪に追われて上洛(じょうらく)した。信長の死後は秀吉に属したが、同十二年の長久手(ながくて)の戦いで戦死している。また長定(ながさだ)(蘭丸(らんまる))、長隆(ながたか)、長氏(ながうじ)の三人の兄も信長に仕えて寵愛(ちょうあい)され、本能寺で戦死したことは有名である。こうして末弟の忠政が兄の遺領を継ぐことになった。忠政ははじめ秀吉に仕え、羽柴(はしば)姓をあたえられ羽柴侍従(じじゅう)とよばれた。慶長三年の朝鮮出兵では肥前名護屋(ひぜんなごや)城(佐賀県)の築城や警護にたずさわる。秀吉の死後は急速に徳川家康に近づき、慶長五年に兄の旧領地である北信濃四郡をあたえられることになった。

 森忠政は慶長五年二月二十三日には、家臣の林長兵衛友重に水内郡山千寺(さんせんじ)(若槻吉)への禁制(きんぜい)を掲げさせるなど、はやくも領内の民政に着手し、二月下旬に海津城入りしたとみられる。徳川秀忠は三月十五日に海津の森忠政に手紙を送って北信濃入封を歓迎し、太刀一腰(こし)、黄金一〇〇枚、鉄砲一〇〇挺を贈った。兄の旧領地を破格の石高倍増であたえられた森忠政は、家康の恩顧にこたえるため大いに働いたと思われる。家康は上洛催促に応じない上杉景勝を反逆扱いし、慶長五年五月三日に上杉征伐を諸大名に命じた。東西決戦の幕が切っておとされた。これにたいし石田三成は、諸大名に家康打倒をよびかけ七月十一日挙兵し、十九日には伏見城(京都市)を攻めおとし、九月十五日の関ヶ原の決戦にいたった。この間、石田三成は会津の上杉景勝と上田城の真田昌幸にくりかえし書状を送って両者の連携を求め、徳川方の挟(はさ)みうちをはかったが、川中島(北信濃四郡)を備えかためた森によってついに実現しなかった。

 また森は、上杉景勝が旧領の越後と信濃に手を伸ばそうとした動きをおさえた。景勝は、この決戦にあわせて越後の上杉遺民に土豪一揆(どごういっき)をおこさせたが、森は領境にあってこれを成敗している。あるいは信濃でも越後に連動して上杉遺民の土豪層による一揆がおこされていたのかもしれない。のちに秀忠から森へあてた手紙に「その表境目(さかいめ)の一揆ことごとく成敗」(『信史』⑱五一二頁)とあり、森が一揆を鎮圧したと記す。伝承によれば、森領下の北信濃で土豪一揆がおきたという。伝えられる年次には二説あり確かではないが、その一説は『滋野世紀(しげのせいき)』にある。忠政はかつて北信濃の土豪に追いだされた兄の雪辱(せつじょく)をはらそうと時期を待っていたので、海津城の名を「待城(まつしろ)」とあらためたとし、入封早々この土豪一揆の加担者三百余人を鳥打(とりうち)峠(松代町)で磔(はりつけ)にしたとある。伝承を別としても、森忠政が家康の厚遇にこたえて、北信濃の反徳川勢力を一掃することにつとめたことは確かであろう。真田昌幸が上田城に籠城(ろうじょう)し、九月六日に秀忠軍を破ってその上洛を遅らせはしたが、森は三成のもくろんだ上杉と真田の連携を断ちきり、徳川方の勝利に貢献した。東西決戦にあたって北信濃の所領の帰趨(きすう)が大きな意味をもったのである。


写真4 森忠政の墓
(京都市 大徳寺三玄院)